USELESS

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ソマティック・エクスペリエンスについて、というかトラウマの克服について読んでて。[身体]は記憶する。身体ってより、意識にならないレベルの学習装置が、覚えているらしく、それは身体を通して覚えられた以上、身体を通して再学習させるしかない、というようなこと。いくら頭に言っても無駄なことはあるし、そういうときは身体で覚えさせる、てのはなんか使えそうだなと思った。肉体的なものが足りてないと、まったくほんとうの知識とは言えない。おそらく本当に大事なことは、自分の感覚でもって学習するしかない。それを俺は体験と呼んでいる。ときには血を流す必要がある。もちろん比喩的にだが。 他者の感覚を通じた経験、読書とか、もまた学習ではあるけれど、それはあくまで自己の経験と重ね合わせられるときだけだ。あるいはものすごく意識を集中して読むとき。ただの文字は、情報とはいえない。物語が情報である。体験こそが知恵になる。 ジム・オルークも言ってたが、「知ってる」だけじゃダメなんだ。ネットがあるからこそ。本当に「体験した」ことこそ持っているべきであって、いたずらに情報を増やしても、なんにもならない。ゴミ食ってると思ってネット記事よめばいいよ。 原始的な、プリミティブな現象がブラックボックス化している。肉体は、経験する主体は、常にフィジカルであり、回転数をあげることが難しい。それ以外のものに追いつけない。もはや我々にとって、生きること、愛すること、セックスや友情や喜び悲しみでさえ、知識化されてしまい、経験はブラックボックスになっているのかもしれない。空想上の生活を送る。抽象化された時間。 別にフレームワークを使うこと自体は悪いことじゃないはずなんだ。体験や学習にはコストがかかるし、コストをかけられない、なぜなら資本とはつねに不足するから。発展しようとする限り、我々は嫉妬し続ける。資本主義の原罪はここだろうと思うが、それでも一定の資本を原体験に投入することは無駄ではないはずだ。 なぜなら体験には汎用性があるから。抽象化されたとて、ノード間の繋がりが見えてくるから。たとえばテクノとロックは違うように聴こえるかもしれないが、そういうふうにとる人は源流を知らないだけで、その奔流の中で流れる意志を体験するが良い。抽象化の抽象化が物事を機能に対して専門家させ、最終的に分け隔てられたもののように見せているだけなんだ。歴史を知るのはめんどくさいという人がいるけれど、科学者や哲学者の(最終的には間違っていたと証明されることになる)知識や定説でさえ、そこに発想の源流、原体験がある限り、学ぶべきものがある。ただ1つの知識ではなく、1つの知識をかたどる系として学習すること。 だから高度に抽象化された実存の幻像を追いかける人々は、いちど生活を本当に生活したらいいんだと思う。創造的な仕事なんてないし、むしろ生活において創造性が求められている。偉大な人なんていないが、生きるその瞬間にこそ偉大さが試されている。 頭で観察して、実装したところで、それはワークしないんだ。絶対に、身体による原体験が必要で。別に想像上の体験でも良い。あるいは、そんなに乏しい感性なのか自ら問うてみれば