USELESS

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体調わるくてもうだるいわとなり、Earthbound、北米版Mother2、をやった。久々にやると、、いや雰囲気は懐かしくて和むし良いのだが、なんかゲームシステム自体はあんま面白くないのよな。戦闘がけっこう単調だし。ストーリー的にも一本道のロードムービーぽくてゲームというよりかはゲームを借りたストーリーテリングを糸井重里がやりたかったんだろうなと。見るものではなくプレイするものとしてオーディエンスを巻き込ませて、そこに視点を獲得させる。そうなんだよな。プレイしてたら、視野、生まれるよな。出来合いのストーリーをただ見せられる、読まされるのとはまた違うくて。点を与えて、線をつなげるということが、いかに人間の好奇心みたいなものを刺激するか、てところに、いわゆるRPGゲームの本質的にテクニカルな部分はあるとは思う。だからどう見せるかではなく、どうつなげさせるか、てところがキモなんじゃないの、と思うのだが、最近のゲームはどう。真3のアマゾンレビューみててもなんか勘違いしたリマスターされてるっぽくて残念になったんだけど、たぶん真5には期待できないなあ。技術的っぽいことにかしずいているようでいて、本当に技術が要求される(必ずしもプログラムとかではない)ところに頭がまわってるかどうかは疑問だ。2000年ごろの、Mother3が開発中止になってごめんなさいインタビュー読んでたんだけど(糸井重里のサイトはやっぱすげえナンボでも読んでしまう)、開発段階の画面みて、ええ、3Dだったのか、、別にそんなんいらんのに。と思ってしまったんやけど、皆、当時の64でやってできたいった3Dに取り憑かれて、3D病だったと。岩田聡も言ってたくらいで。なんかこう、技術があれば(あるいはホゲホゲがあれば)、これができるはずなんだ!これをやってみたいんだ!ぜったいおもしろなる!おもろいやろ!という意気込みは、たしかにわかるのだけど、それは作り手にとって当然あるはずの欲望だけれど、ただ冷静になって思い返すと、あれは何だったんだろう、という虚無感だけが残る。面白さに対する、自己欺瞞を見てしまって反省しているような様が、感じ取られて。それが2000年の記事なんだけど、ちょっと普遍的な話ではあるわよね。ゲームじゃなくてもっと小規模な、バンドとかのチームで、適当にスタジオでとったデモ音源がよくて、スタジオでウン十万かけてとった音源がクソやったりする。バンドメンバーは、初期の音源を聴いて、流通しているような音源と聴き比べて、なんか音がちっさい、迫力がない、プロダクションがゴミ、もっとちゃんとやらなあかん、て思うんだけど、リスナーからすると割とどうでもよくって、そんなん聴くときに少し音量あげればええ話なんですよ。でちゃんと技術的にしっかりしたスタジオで音とって、ミックスダウンもしてもらうんだけど、最初はすげー!音でかいし綺麗や!最高!となる。けどあとあと聴いてみると、なんか違う、なんかが死んでいる、とようやく気づく。肝心なところに、頭がまわってないんよね。いわゆるDIY精神、アマチュアリズム、そうしたものを、例えば規模が10倍、100倍になったときにも保ち続けていられるか、どうか。金がないリソースがない、てときは選択肢がないから迷わないのよ(貧乏のいいところ)。選択肢が増えたときが危険で、変なとこに脱線する誘惑が途端に生まれるし、その系をたどっていくと、明後日の方向に、莫大な金と時間を投入してしまうことは大いにありうる。むかしのゲームでもやって面白いなと思うのは、表現の乏しさで、乏しいながらに見えているものに、本質的な面白さの系が顔を覗かせていることがある。