USELESS

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ゴッドファーザーのパート3の再編集版、みてたんだけど、元のバージョンのほうが良かったな。確かに話の筋は、銀行の交渉から始まって(ゴッドファーザーの伝統で交渉から始まる)、華やかなパーティ、てので通りは良くなったんだけど、なんかエピソードの羅列を傍観しているようでいて、あまりそこにダイナミズムは感じられなかった。なんだろうね。パート3は、力のジレンマ的な部分に焦点があたるような印象だったのだが、それがただのパート12の後日談てきになってしまったような印象。マイケルの元嫁の言う通り、公権力こそがパワーの頂点で、そこに切迫しようとするコルレオーネはギャング以上のパワーになろうとするが、上へいけばいくほど、下からは妬まれ、上からは潰す圧力がかかる。すでにパワーがあるってことは、すでにそこを叩くインセンティブをゲーム理論でいうプレイヤーに対して与えてしまうことで、そうした中でのある意味、必然的な挫折がパート3なんだよなっていう記憶だったんだけど。それがなんだろうな、ただのお話にしか見えなくなった。内容変わってないし編集しただけなんだけどね。話が進んでいくだけ。深まることがない。ゴッドファーザーの面白みは、話のストーリーテリングの中で、キャラクターとその模様を描写しつつ、それぞれの思惑がどうなってんだっていうところが深まっていく(視聴者の頭ん中にグラフが豊かに形成されていく)ことで、各々のオプションの兼ね合わせがまあ最終的にジレンマに陥ったり殺しになったりして形式上は解決していくってとこだけど。もっと古典的な映画でいうとゲームの規則なんかもプレイヤー間のインセンティブの差異が悲劇的な結果になるわよね。そういうのが面白いなと思ってたんだけど今回のパート3の編集版は駄目だ。ファン向けの(もちろんファンだからみたわけだが)、サービスみたいに見える。そういうのは金稼ぎにこそなれストーリーにはならない。パート3の存在自体が完全に蛇足だったとは言わない。むしろパート12を見るコンテクストが増えて嬉しい。だけど今回の再編集版の意図がマジで分からない。端的なところで言うとラストシーンの挫折感はもとのほうが良かった。境遇にめげずにファミリーを守るためにやってきた力の歴史の最後の挫折って意味合いがすごく薄れたように感じた。やっぱ全体的にまとまりは良くなったものの、それだとただのお話になっちまうんだよな。あとサブタイトルになっているマイケル・コルレオーネの死ってのは父権主義の死ってことだと思うけど、ビトコルレオーネの時代から経て、何が変わって何がワークしなくなったのかってとこなんだよな。パート2の冒頭のパーティのシーンで既にイタリア式の伝統が薄れてきてるのが伺えるんだけど、こう何かに従わなくてはならない、というベースがなくなってくると、父権主義は弱くなる。環境の変化で選択の範囲が広がると、こうすべきだ、こうあるべきだ、は、昔ほどの重みを持たない。あらゆるものには、それだけではない、がつきまとうからだ。コニーが、アメリカ人の男とはしたなくダラダラ付き合ってるとか、フレドが不満を抱えてるとか、そこに外部からの干渉。もうこれはマイケル抱えきれないでしょ。でもそこで頑張っちまうのがマイケル・コルレオーネだ。ハイマン・ロスを殺せつったときの周りの当惑っぷりがすべてだよな。ローマンエンパイアは強くなるが、生き生きするのはトップだけ。それがパレート効率的な解決なのかつったら、全体の利得はそうじゃないわけで。そうなると最後は必然的な死だよな。ゴッドファーザーのパート4があったとしても、ヴィンセントはファミリーの意思をつごうとしてあっさり失敗するだろう。失敗という成功、終わりの始まりになるかもしれんけど