USELESS

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たまにはジャンクフードでも食うかみたいなノリで自己啓発本きいてたんだけど(Kindleの自動読み上げによって本はもはやきくものになっている)、やっぱ俺はこれが一つの病だと感じる。自己啓発の内容でまあうまいことやれたとして救済される程度なら世話ないよな。しかしそれも存在することの恐怖、罪の意識からの逃亡に過ぎない(自分は少なくとも役に立つ、価値がある、そう思いたくて自己を担保するために、経験に依存する)。ただそれをやってるだけ。うまくやれたら救済される。そうして人は有能になる。僕が有能な人をみてよく罪の意識を嗅ぎ取るのはそういう背景がある。 で自己啓発に限らずだけどまあ結局のところ人間にとって重要なのは、罪からの救済だ。すべてはそのトライの変化型でしかない。存在することの苦悩から1秒でも解放してくれるなら、なんだっていい、タバコでもゲームでも女でも仕事でも酒でもうまい飯でも趣味でも芸術でも何だって良い、そこには何の違いもない。まあコスパが良いのは仕事だろうけどな。ただそれだけの話。なあ、そういう自己の救済は成功するのか?俺にはそう思えない。自らの罪を認める以上の効果を持たないように思える。それも頑張っただけ罪はより重みを増すだろうよ。 そして罪には罰がつきまとう。自らを辱めるという罰だ、それを誰もかれもがやっているので当たり前に思うかもしれないけれど。もっと言うと、人は自らの内に罪を感じている受刑者であるだけでなく、他者を断罪する存在でもある。つまり改悛者になるってのは、裁き手になるということ。そのお前の自己愉悦は、人を裁く快感じゃなかろうか?(カミュの転落)。 ゆえに贖罪の行為はワークしない。有能になりたいと、力を欲し高みを目指す狡猾さに気づいているか。他者から赦されようと思っていないか。その他者だって、お前を赦さないのと同様に自らをも赦していない。なぜ、人は他人を許せないのかというと、自己を赦さないからだ。だから他者を赦す者は強く、そして全的に見える。 まず自分を赦すことから始めないといけない。人生とはそれ自体が大いなる浪費だ。このことに免じてすべてを今、ゆるそう。そのうえで、あとはまあ、どうやったら気持ちよくなれるか、快楽の園をつくることだけが問題になる。空虚であることはなんと豊かなことだろう。限界を知ることはなんと自由なことだろうと思う。