USELESS

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USELESS

存在の過剰さは常に私たちを圧迫し続けるもので、私が私である限り、私は常に私でありすぎる。自分の吐き出す吐息にすらその気配を感じては吐き気がする。何の意識も持たない、木の葉になりたいと思ったことはないだろうか?俺はある。人からの尊敬や好意を受け取るたびに、消えて無くなりたいと思う。無に帰すことは、全体を包み込むことでもあるのだ。私たちが存在を意識するほどに重圧的な印象を持つのは、それが全体との対比による矮小さを強く感じとるからだ。全ては本質において暴力的なのではなく、暴力性は物事が分かれる時に生まれる。だから僕はよく何かに対してそれ良いねと言った時、その自分の口を軽蔑している。それは勇ましくない。勇敢な人間は、緩慢な自殺をしているように見える。誰にも気付かれずに、こっそりと、ゆっくりと死んでいく。なぜなら自殺は気付かれた瞬間に失敗するからだ。完全性が生まれるとき、そこには対立がない。分別のない空間で、全てが捨象されている。もちろん自分も。意図や意識もなにもない、そこでは全てがすべてであり、白濁していて、宇宙の原初のスープみたいだ。芸術家を軽蔑すべき理由はそこにあり、彼らは小賢しくて狡猾で、そして間抜けなことに私たちに知られている。だから芸術作品の唯一の効用は、こうした滑稽さを思い出すことくらいなのだけれど、しかしそれによって私たち自身が反証的な芸術家になれる。そうして私たちは芸術家としての私たち自身を軽蔑し尽くした後、緩慢な自殺を遂げていく。