USELESS

ARCHIVE

USELESS

肉を食ってて。肉やばいなと思って。いや散歩してたら肉くいたくなって、スーパーでグラム200円も行かないような平べったいアメリカ産ステーキ肉250グラム買ってきて、オリーブオイルにニンニクを入れて焦がし、そして肉を放り込む。この段階でよだれ分泌しまくった。間食を抜いてたから腹のすきは問題ない。一気に焼き、一気に食った。皿に綺麗に盛り付けるまでもなくバーンと食った。無我夢中で食った。獣のようになった。ライオンなのか?誰が百獣の王なのかはライオンが決めたことじゃないけど。それもひどい話だなと思った。あと久々に映画見てて。https://sovietmoviesonline.com/こんなサイト見つけて。おすすめ。ロシア映画の見放題サービスで、1日見放題を購入した。5ドル。タルコフスキーのアンドレイブルリョフ、鏡、それからイワンの少年期を見た。どれも初見。タルコフスキー好きだけど、日本でレンタルしやすいのってストーカー、ノスタルジア、ソラリスくらいじゃないっすか。それで観てなかった。ぽすれんにも置いてないのよな。でまあ観た。鏡は2回見た。やばいな。タルコフスキーで一番好きなのが遺作サクリファイスなんだけど、それでも66年のアンドレイブルリョフからしてぶっ飛んでる。映画の論理学を一歩前に進めた人物がいるとすればそれはタルコフスキーだろう。タルコフスキーの映像は画家の目のようで、詩人のようで、小説家のようで、そのどれでもなく映画だという印象を最後には持つ。どうやったらこんなスタイルが生まれるんだ?悪魔と契約したのか?肉を食えばライオンなのか?機能のポリモーフィズムということを、映画という特殊な、いわば後発の芸術を通して考えてみると、舞台芸術や他の芸術の模倣でしかなかったものが、時代を通して、1920年代からずっとなんやかんやあって、とうとう映画の領域を獲得したのが60年代のヌーヴェルヴァーグくらいからだと思ってて、例えばその映画を一枚の絵や一冊の小説や舞台に置き換えるとしてそれでもなんら譲らないようなものがあるなと思えるのが映画の地平の非継承な部分として生まれてきた。それがゴダールやタルコフスキーの行ったことで、それよりちょっと前の映画、例えば黒沢やベルイマンの豊かさは、なんだろう、その時代までに整備されてきた映画の文法や弁論術を最大限に使い倒した監督であるような印象だ。しかしタルコフスキーの映画は言うなれば、映画が映画の基底クラス自体を参照し、継承しているよいうな、他のどのような媒体にも置き換えられない地平を切り開いた。映像やセリフや音楽や俳優が、それらは描写にとどまらずに、それ自体として存在している。「鏡」で特に顕著だけど、物語の伏線でもなければメタファーですらなく、ただの映像として眼前に示される感じ。あれ。あれが映画としての究極で、母親が、なんかよくわからんけど急いでて、でもその焦燥っぷりだけは伝わってきてて、でも特に何もないことをやがてわかり、展開はしない。それどころか他の女に罵られてなんか空気悪くなり、印象がかき混ぜられる。拗ねて、シャワーを浴びに行くんだけど、水が出ない。そんなこんなで気づけば次の場面に切り替わっている。ずっとそんな感じ。まるで混濁した意識の中でおぼろげに見えてくるものを想像力で補ったような、超越的なものと経験的なものとの間をうろついているような、そんな印象がある。でもこの印象は、文字では伝わらないだろう。てか、文字の方がいいなら小説にすればいいし。ゲームでも映画みたいであるのを売るなら映画にすればええやんって思うし。歌がどうしてただの詩ではないかって、そこにメロディがあるからで。おそらく昔の人は先に歌ってて、そこに言葉を乗せた。映画なんてそれこそ100年そこそこの文化だけど、最初はなんかスゲー的な技術だったものが、一つの独立した存在になってった。でも存在ってのは不安と同義で、それは常にレゾンデートルとの戦いになる。戦いに疲れた文化は隠居暮らしの安寧に行き着くのだろうか。人間、カルチャーだ文化だ芸術だつってる時ほど加齢臭のひどい時もないもんな。肉を食え肉を。