USELESS

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食べないが大事だ。余計なものを食べない。決まったものしか食べない。外食を食べない。必要より多く食べない。とか。食べることよりも食べないことの方が大事だ。どうしたら食べないで済むかってことに最大の問題解決はある。むろん、世の中で広告されるのは食べることの方だけれども(でなきゃ売れない)、食べないことの重要せいに気づいているか。いや普通に食事の話なんだけど。趣味的な領域というよりあくまでプラグマティックに食事を考えるなら、食べないに行き着くと思う。食べるという積極的な打ち手は、確かに見た目には美しい。美しいサラダは美しい。健康そうなものは皆うつくしい。うつくしい飯を食うと形式的には解決しているように見える。罪からの救済が得られたと錯覚する。しかし美しいものが美しい所以はその構造的な問題を隠すためであることも多い。健康そうなことは、だいたいにおいてお茶を濁すことは巧みだ。その場限りで。でもダメだ。それらは究極的にはワークしない。まず意図的に行われる行為はすべからく失敗する。だから食べるという意識がある時点でダメなんだ。俺も昔サラダばっか食ってた時期があったけど、それはあまりにも大げさで、習慣化してもなお、それを意識せざるを得なかった。意識が割り込むような事は、判断が入り込む。それは欺瞞の可能性と、再現性における不安定さを意味している。実際、野菜を食って得られるものは少ない。食物繊維の量だけで言えば、野菜くうのような局所的なものではなく統合的に対処する方が良い。イヌリンや難消化性デキストリンのような粉を導入するとか、きな粉とか、ごまとか、そういうもの。調達コストが少なく、障害による未再現リスクが低いもの。これらを生活に組み込むことによって、食べるがなくなる。食べるがある以上、それは食べないこともある、ということ。食べるはロングランで潰れる。そもそも食事など肉体の燃料にすぎないと割り切れば、儀式ばった食事は不要だ。1日10分くらいで済ませれば良い。気づいたら終わってるのが良い。意識してはいけない。まあ、たまには儀式というか祭りがあっても楽しいけどさ。でもあくまでプラグマティックにやろう。1日中、頭と体を稼働させるためには良質で過不足ない栄養が必要だ。それを再現性たかく保つなら、食べない方法群を組み込んでおくことだ。それらは今もこれからもアップデートされ、運用されていくという覚悟のようなものが必要で、生易しい自己満足では戦えない。毎日、自作ツールでPFCと繊維をトラッキングしている。計測できないものは改善され得ない。それを監視しながら、実測値と体感で身体を調整していく。気温下がってきたしカロリー増やすか、みたいな。1日およそ2000〜2200kcal摂取するけれども、内訳に気を配る。最近は食パン2枚ぶんのカロリーをあぶらに置き換えるようにした。オリーブオイルをショットで飲む、これは良い。食パンの再現性の低さというか扱いにくさが気になっていた。あまり保存がきかないし、糖質が増えるし、あとマーガリンが気になる。その点あぶらは良い。スプーン1杯でもかなりエネルギー取れる。変なあぶら塗った外食くうなら普通にその金で良いあぶらを買って飲みなよ。時間かからないから。なぜこんなことまでしてるのかってまあ生きるためだよ。戦場で生き残るためには(現実は戦場だ)、タフであることが何よりも必要だ。この世のあらゆる暴力に耐え忍ぶためには、身体を整えておく必要がある。身体ができてないと、何やってもダメだよ、深く潜っていける才能があっても、ヤワな人間はすぐにやられる。