USELESS

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これは何なんだ?と問うときに自己は分解される。私かつ”理解する”かつ「それ」の集合を要素命題とするような、「私はこれを理解するか否か」として表現されるものが真理関数だ。私は日本語を理解する、かつ、対象の論理について既知である、かつ、それは現象する、等の可能性の論理空間の中でしか私は何かを理解しない。その際に私は論理に還元される。 そもそも、私という存在自体が現象であり、それ自体が記述され語られる事象だ。ゆえに、私が私という事態を掴むことはない。私の意思、私の愛、私の永遠性、私の魂、等々については、あくまで写像されるにとどまる。しかしそれは何らかの形式を、少なくとも、世界内の論理形式だけは、共有している。だから思うに自己存在の幅を想定するならば世界全体から虚無の間だとは言えるけれども、それ以上のことは何も言えはしない。 では何が問題なのか。フィロソフィアの命題が愛知にまつわるものならば、ヴィトゲンシュタインの試みは哲学を終了させた。おそらく、問題は何もない。謎はまったく何もなく、幸福も不幸もなく(ないならばせめてそれを幸福と名付けよう)、人類のエピローグが永遠に続いている(続く?多分それも相応しくない。過去も未来もなく、私たちが見ているのは可能性の1つの片鱗だからだ。それらが等価であるならば、時間の区別など世界は必要としない)。 それでも我々には解くべき問題があり、知るべき謎がある。それらは全くもって宗教でも哲学でもなく世俗的な類のものだけれど、しかし仕事はある。全一者の顔をしてモニターの前に座り、クエリを叩き続けるような仕事が。俺にはそう思えた。