USELESS

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人間の社会活動は広告活動で成り立っている。広告に過ぎないならば、事実の真偽は問題ではない。そこにおいてあなたの「正直さ」が不毛になるなら、捨てるべきだ。場合によっては、いや、ほとんどの場合は、人を騙した方がいい。騙しておきなさい。 まず第一に、人間の9割はバカで、あなたを理解しないから。第2に、あなたもバカで、人のバカさを理解できないから。そして第3に、前2つを回避するほどの時間や労力はあなたにないから。そこに欺瞞的な正義を持ち込むだけの暇は余剰はない。 例えばあなたの仕事がとても素晴らしくてあまり誰にもできないようなテクニカルでかつ労力を要するものだったとする。しかしその複雑性を価値を人は理解しない。バカにはわからない。ちなみに人類はほぼ全員バカです。現実的にありうる可能性は一つで「本当にすごいものを理解せずにすごいと思い込む」人が大勢いる状態。ここで誤解してほしくないのだけど、あなたは本当にすごいことをできるのだろうし、本当にすごいことを諦めてはいけない。だけどそれを人にわかってもらおうと思っちゃいけない。あくまでそれらは独立で、因果では結ばれない。だから、そこでのプラグマティックな解法は、あなたのすごいことをすごそうに見せることだ。つまり人を騙せ。人に期待をするな。でなければ遅かれ早かれあなたは痛い目にあって本当にすごいことをする時間を多く失う羽目になる。 そして実際、騙すことはどこにでもあることだ。錯覚を利用するといえばいいかもしれない。例えばスタイルをよく見せる服。あるいは、今あなたが聴いているすごいと思っている音楽、その音源は、非常に多くの耳の錯覚を利用している。そうしたものに「騙されて」すごい音だと思うこと、こうした錯覚がこの世のすごさの一切を形成している。今日も自分に「似合う」服を着て人に感じの良い微笑みを振りまいて、そして何よりも言葉を喋っただろう。この世界に何もすごいものがないとしても、それは関係ない。人はほとんどのものを偽装できるからだ。でなければどうしてセックスができる? 愛を持って人を騙そう。そしてあなた自身ですら、騙すべき他人の一人だ。実用的な意味さえ持つなら、信ずるに値するような、それらしい理由を与えてやればいい。それが真実味を帯びてくるまで続けなさい。やがてそれが私たちの真実になるから。人間ごときにできる愛などそれくらいだろう。それ以上の何かを求めるのは不毛だ。 カントが人間の理性に対して行った線引きのことを考えよう。カントは純粋理性批判において最終的に神や魂の永遠性、そして自由について、なんて言ったか?なんとも言えない、だ。何も言えねえってか。わら。なんも言えねえ。でもそれは実を言うと「なんとでも言える」ってことでもある。