USELESS

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ドストエフスキーの恋愛観は愛の裏側に憎しみと軽蔑が存在する。激情的に愛を募らせるかと思うと激しく殺しかねないほど憎む。大体そんなイメージ。たとえば恋愛小説的な側面が強いのはもちろん白痴なんだけど、ナスターシャ・フィリッポブナのムイシュキンに対する求愛と拒絶、の両面があり、自らの不安定なエゴの救済とそのニヒリスティックな否定の2つで揺れ動く。美人だけど相当ややこしいみたいなメンヘラ美女で、回避性みたいに捉えると、公爵の無条件的な愛に対する防衛規制になるのか?めちゃくちゃ好きだけど自分を好きな男なんて死ぬほど怖いわ逃げよラゴージンのとこ行こって感じ?でラゴージンはというとエゴの塊なのでクソほどホットなナスターシャがいつまでも「俺のもの」にならなくてもう憎くて憎くて殺すっていう。恋愛ほどエゴのぶつかり合いもなく、激烈な愛情は激烈な憎悪をさえ孕んでいて、何かそこに同じ根っこにある何かを人間の心の中を覗くような感覚がドストエフスキー読むとある。実際、俺にも恋人に対する憎しみはいつもある。特に相手が自分のことを崇拝し出すと(そんな素振りを匂わせると)俺はもう憎くて醜くて離れたくてたまらなくなる。むしろ見下してくれ、鼻で笑ってくれよと思う。あるいは、カラマーゾフで感じたことだったか、限りなく軽蔑すべき部分を相手に認めた上で、その異質な部分を愛してしまうとかがある。だから愛によって近づくほどになぜか憎しみがつのる。僕が女の子に対してかわいい素敵だと惹かれるとき、同時に相手になにか軽蔑を感じているのに気づくことがあるけど、むしろ軽蔑するほどにハマってるかもしれない(だから関係は往々にして何か苛立ったものになる)。 最近読んだのが悪霊なんだけどこいつもやばくて。この作品の中では、あらゆる尊敬は軽蔑に転じている。主人公スタブローギンの本命は結局ダーシャ、聖女のようなキャラクターだ、が本命(敬愛の対象)だってのは話の途中からもう分かるんだけど、最も軽蔑される存在、びっこ女のマリヤと結婚してみたりする。愛してもいないリーザを求める芝居を打ったりもする。最後に自殺する前に、ダーシャの赦しを求めるところからして、もはや愛そのものを信じていないことがわかる。ニコライ・スタブローギンは最初から何も信じてなくて、愛に関してもその不可能性を悟っている。彼がストーリーの中で行う、挑戦的な、あべこべな、愚劣極まる行為、これら全ては不信から生まれる、何にも熱中することのできない存在の退屈しのぎなんだよな。彼は是でもなく非でもない、無のような人間像だ。善を求め、同時に悪を求めるように見えるが、しかしそのどちらも信じていない。不信心者には愛が芽生える土壌はない、なぜなら崇高なもの、あるいは神との対比にあって浮かび上がる矮小な軽蔑すべき人間こそが愛の対象たりうるからで、どんな形であれ信仰は必要だ。とか言って片付けるのは俺も嫌いなんだけど。聖人とはセックスしませんよね。だから人間の愛には自ずと軽蔑と憎悪とが含まれている。おそらく、本当に尊敬し崇拝している相手と恋愛できる人間はいないだろう。人はむしろ凡庸さ、愚鈍さ、愚劣さを愛するものでして、へ、へ、へ!とでも言おうか。 話飛ぶけどDHロレンスの息子と恋人(自伝的な恋愛小説)に出てくるミリアム、尼僧のような女、が主人公ポールに対して投げる愛は信仰の告白で、最初から最後まで恋愛として成立しない。キリストの偶像とはセックスできないわけで、恋愛は宗教ではない。むしろその反対かもしれない(DHロレンスが解放しようとしたのは宗教に成り下がった恋愛で、それがこの作家のヒューマニズムだと思っている)。こうした信仰と侮蔑のあいだにあるドロドロとした不明瞭ななにかは小説のようなストーリーでしか表現しえないよなと思う。でもやっぱ両儀的なものの間で揺れ動く激しさはドストエフスキーを置いて右に出るのはいない。。生誕200年たってなお