USELESS

ARCHIVE

USELESS

興味を捨てる技術が深い集中には必要で、それは一定のラインを超える意図をあなたが持つなら避けられないことだ。知的好奇心のあることは礼賛されることの多いTraitだけど、それを持て余す危険もある。だから興味の範囲を意図的に狭める訓練を必要とする。 そもそも集中することの最大の恩恵は、汎用的な系を獲得することにあると思う。時代を超えて普遍的な本質を学習するには古典を読むことは勿論だと思う。時代環境に依存しないでいて輝かしいものにはそれだけの何かがある。けど本読むだけが学習ではなく、閾値を超える訓練をつむことが、断片的な知識ではなく系を生み出す瞬間がある。その系は深い根っこで繋がっていてこの先の時代が環境がどうなろうとあなたを助ける。 ので、何だっていいから集中が必要で、それをものすごくやれるかどうかが問題で、その結果は問題じゃない。先のことはわからない。専門的な知識や技術は、意外と問題ではない。100年後にもそれが生きるかってっと、それはない。だが普遍的なものは残る。100年後の自分に投資する最も有効な方法は、深く潜っていくことだ。 だから自分の興味をあえて狭めること、を意図的に訓練するのはいいことなんだ。モチベーションの発火を絞るって言ったら良い。そしてそれには3つくらいの方針が提案できる。 1つ目には見ないこと。ソーシャルメディアを見ないのは当たり前だけど検索しないってのも一つあり、検索する前に答えが出ている。ほんも読まない、何も見ない。この世の全てはクソだと相場が決まっている。興味ねーから失せろ。これで8割消せる。 2つ目、退屈になる。僕の生活はとても退屈だ。つまり、客観的に見て。大体、同じことしかしていない。でもここで注意したいのは意図のイテレーションだ。毎週ちがうカレー屋に食べに行く人はよほどグルメな人だけれど、バラエティに富んでいるように見えてこれは意図のイテレーションだ。彼とは話が合うだろう。あとは自分で考えてね。 3つ目、最後、ここが大事なことだけど、技術的に絶望すること。何によっても報酬はもたらされないと前提を書き換えることは、行動を変える。正確には、行動の実存的な意味が変わる。希望に依存する行動は脆弱性を孕んでいる点で、やがて集中力が切れる。深い集中は、希望を持たない。むしろその対象を見透かし、対峙することによってその系を得る。ここが大きな違いだ。ラットレースに巻き込まれるだけの人は、希望を捨て切れない。この世はいつの時代もディストピアであるし、人間個体の実存は経験的に描写されうるものではない。絶望における行動はささやかな反抗に過ぎないが、カミュはこれを重視した。すごいよなと思う。