USELESS

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人間性を否定したところに人間的なものが見出せるというコペルニクス的展開、そうした何か実存主義文学じみたものがサイバーパンク作品の本質にあると思ってて。これが我々の種の人間を興奮させる。 そもそも人間性の究極的なものといえば自由、魂の存在、になるだろう。ただこれらの概念は極めて線引きがしづらい。カントはこれらの論証を純粋理性のアンチノミーと名付け、人間の理性の到達限界として示した。だからこそ人間性の本質は超越的にならざるを得ず、それを想定するならば、カントの言葉で言うなら行動の格律の実行であり、ふしだらにバタイユなりに考えるなら裸の理性として捉えられる。吝嗇と推論的理性を排したまっさらな存在の動く様。記憶にもとづいた意思ではなく無条件な行動の意思。人間があるのではなく、人間がなされる。Fitter,Happier. サイバーパンクは汚い。どれだけ技術文明が進歩した未来を描いていても汚い。アンドロイドや義体、電脳化が人類を変えたとしてもその世界はなおリアルに感じられる。それは汚いからで、インセンティブの動くゲームの中で翻弄される人間達が起こす結果つまり社会に科学技術や時代は関係ない。テクノロジーは人間を解決しない。むしろアンドロイドやAI、義体化技術が人間を曖昧にする。だからこそ一つの存在としての人間が問われる。自らが(あるいはアンドロイドが)自由な存在者であるのかという「対自」的な意味性を探すプロットの中で、登場人物はそうしたものをかなぐり捨てる。往々にして。 例えば王道で言うとブレードランナーだけど、デッカードは最後に死にかけのアンドロイドの遺言に実存を見出すのよな。それでレイチェルを連れ出して人間を捨てる。かっこいい終わり方だ。映画のゴーストインザシェル、アニメの方、あれも最後に少佐は人間を捨てて実存的不安からの解放を見る。ネットの海は広大だね。AKIRAがサイバーな要素すくなくてもサイバーパンクなのは、キャラクターの行動性にあり、力を持つことではなく力を召喚する方向に向かうキャラクターが多いこと。ニューロマンサーが良いのも、モリーちゃんが行動の人であるから。 逆にこの実存主義的な要素が薄いとどうもただのエンタメになってしまう。直近で言うと2017年はブレードランナー2049とゴーストインザシェルの年だったけど前者は王道のスターウォーズ的なできのいいSF映画。映画としては佳作だけどサイバーパンクではない。スカーレットヨハンソンは良かったんだけどなんかビジュアルが綺麗すぎた。サイバーパンクはもっと汚い。あと両者ともエセティックとプロットをコピペしてそれらしく編集しましたという感がある。そんなものに何の実存が見出せる。いつから人間の想像力は衰えたのか。なんでもググってるからなのか。コピーではない汚さが見たい。 サイバーパンクは、リアルにくる未来を想像して、ユートピア的発想を投げ捨て、その未来の混沌さや汚さや秩序の無さ、科学進歩にまつわる実存的不安を描く。それはネオンライトの輝くチャイナタウンじゃない。それはドアが縦に開くスーパーカーじゃない。それらは描写に過ぎない。好きな映画でガタカってのがある。SFとしてはチャチなんだけど(ツッコミどころが多い)、でもこれは未来がやってきたとして、そのディストピア的な結末が、そこで我々のヒーローがどう行動するのか、そこがリアルでよく考えられているから好きなのね。未来においても本当にクリティカルなことは、AIがあなたよりも仕事できて天才で自分はアンドロイド相手にセックスするだけになったとして、それで自分ってなんなんすかと言うことでしょ。