USELESS

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最近なんか自分が死ぬ妄想をする。いろんなパターンで死ぬ自分を想像する。滝の激流の中に放り出されて水中深くに沈められて俺はもがきながら空気を求めるんだけど流れが強すぎて浮かべなくて最後には酸素が足りなくなってきて力が抜けてきてとうとう口をプハッと開けてしまい、肺の中に水がなだれ込んで死ぬとか、銀座の近くのでかい50階建てくらいのビルの一室から、うわスッゲー高い高〜いってガラスの窓みてると背後からすごい勢いで突き飛ばされてえって思う間もなくガラス突き破って落下して気が遠くなって地面に叩きつけられて死ぬとか、上からなんかすごい大きい岩が落ちてきて死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬって恐怖を覚えながらプツンと死ぬとか、想像するだけでスッとくるな。 悪霊のキリーロフが言ってたことを思い出す。人は死んで神になる。いや、もっと正確に言うと、死に際してその恐怖を覚えない者、生きていても死んでいても変わらない状態である者、それはすなわち神だということ。生死に依存しない超越者としての存在、それは神と呼ぶのもいいだろう。なんとでも言える。 自分に言わせれば、無になるということだと思う。てか今日その考えが浮かんだ。つまり、あらゆう有象無象の経験は便宜的な形式として私たちにとっての知覚という感覚をとるけれど、その背後にあるもの、それがすなわち無で、人間にとっての究極の認識がこの無の知覚にあるように思う。経験的な認識においては、そこにあるもの、存在の便宜的な感覚しか捉えることしかできない。多くの人間はこの知覚に多大な労力を費やす。喜び、物質、感覚、愛、快楽あるいは不快、肉体。しかしそれらの認識がとらえているものは世界全体のほんのわずかな一部分でしかない。当然だが、これは我々の想定する神にとってはショボい世界だ。しかしもし我々のアプリオリな機構それ自体に世界そのものを示す機構があるとしたら、それは私たち自身にも神が存在する可能性だと言える。そしてそれが無だと思う。私の存在の背反にあるもの、truthinessの裏側。そこにはバリエーションがない。経験世界の多種多様なバリエーションがなく、それはただ、無い。このシンプルさはやばいな。そのことに世界をつらぬく何かがある。そう感じないか? で話を戻すと死ぬことについて何も感じないとしたら我々の存在自体が無に等しいと知覚することからによってであると思う。そもそも今生きている自分が動かしている身体は世界の中の人間っていう70億くらいうじゃうじゃいる何かの一個体にすぎず、それは限りなく無に等しい。そしてそのちっぽけな何か自分が生きている!存在している!生きることの喜び!素晴らしい!みたいなのは無の世界、捉えきれない超越的な世界に対して私たちの知覚が与えた便宜的な存在の形式にすぎず(何もないものをどうやって目で見るのだろう)、これらはもともと無であったものかもしれない。というか本当は何もないんだろう。でも本当に無の認識の中に埋没してそれでもかつ生きた人間であることは難しい。 やっぱり俺は人に殺されそうになったら必死に抵抗して生きようとするだろうし必要ならそいつを殺すし、ビルの屋上からおっこちても最後までどっかぶら下がれそうなところに向かって手をバタバタさせるだろうし、ギロチンになったらまあ最後までなんか楽しいことをしようとするだろう。自殺もしないだろうと思う。