USELESS

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もう少し真面目に考えてみたい。時間とはなんなのか。時間は存在(の認識)についてまわる前提としてあり、例えば我々は時間(と空間)を想定しなければ自己存在を認識することはあたわない。座標のないものを、どうやって認識すればいいのか分からないからだ。つまり、今、ここにある自分しか認識できない。じかんと存在はセットだ。 しかし時間が先なのか、存在が先なのか、どちらがどちらの根拠なのか?という疑問がある。それを問うことはおそらく神とこの世界の究極的根拠を辿ることだろう。先に言っておくと、そこで答えは出ない。ただ問題は、私たち存在主体が、いかにして至高性を獲得できるのか、にある。人間の惰性的で便宜的な認識の形が、何か悲劇的なものを、我々に生みつけてはいないだろうか。便利なものを手放すことによって、力を得ることがある。時間にまつわる憂鬱を払拭できるなら、それはその範疇においては実用的だ。それは解釈の果てしない沼のようなもので、進みながら沈んでいるのかもしれないが、それでも尤もらしい道を探求することは、少なくとも我々が我々自身に落胆しないで済むくらいには、役立つかもしれない。 まず、古典的な見方で、永遠に流れる時間軸の中に存在が発生すると考えてみる。時間の中で私たち存在主体は動き、感じ取り、そして全ての物事が動いていく。時間という土台の上に立って。まあ、この見方は確かに分かりやすいけれども、でも土台とするには時間はいささか脆弱性があるように思える。時間は、そんなに定量的で、不動のものだろうか。これにとっての時間、あれにとっての時間、そうしたものを一つの絶対的な時間は許さない。それに、時間はよくみると実際には伸びたり縮んだりしているし、そうした曖昧なものを元にして存在を同定するのは、気持ち悪い。そして何より、人間は、存在は時間の中に限定されてしまう。少なくとも俺はこれが嫌いだ。 次に、存在から時間が発生する、と考えてみる。時間は我々自身に’ついてまわる’もので、時間はそれ自体としてある絶対的なものではない。行動と感覚を捉えるために、時間という座標軸を据えている。例えば、自分息を吸うごとに、感じるごとに、時間が動く。光が走るごとに時間が動く、といった具合に。だからこそ時間の感覚は人によって違うのかもしれないし、伸びたり縮んだりする。存在が存在を確かめるために、時間という補助線を引いている。ただこれにも疑問が残り、時間が存在にとっての便宜的手段でしかないのであれば、どうして私たちは世界全体として時間軸を共有しているように見えるのか?ということだ。極端な話、私が存在しなければすなわち世界も存在しない、を意味する。自らが生まれる前の世界史や、死んだ後の未来はどうやって説明するのか?これは多元的な宇宙を肯定するようなものだと思う。それも人によっては良いのかもしれないが。 3つ目があるとすれば、存在とはすなわち時間であり、時間とはすなわち存在であるとする見方だ。つまり、それぞれの間に依存関係はない。存在の可能性のさまざまな表象こそが時間、もっというと瞬間であり、私たちの知覚は、時間というインデックスでソートされた存在の可能性を「順番に」見ている。これは、私が生まれる前も死んだあといも世界の存在自体に水を刺さないだろうし、ある意味で整合性のあるマシな見方かもしれない。この世界の存在とともに全ては無に近い一点において起こっているのかもしれないが、ともかくそれらの可能性の集合は時間という因果関係によって整理される。つまり、時間でクエリした可能性の部分集合が現在だ。私たち自身の存在それ自体が可能性の一部であり、そして同時に(限られた範囲ではあるけれど)可能性を、世界を見ている。それでようやく、落ち着いて問うことが可能になる:私は何を見たいんだろう? 肝要なことは、我々が時間というものに縛られていないことだ。つまり、私たちが時間に規定されるのではなく、可能性の総体を解釈し構築する我々の態度にこそ経験の限界はあるのであって、時間ではなく想像力が問題なんだろう。習慣として染み付いた時間に対する意識を取り払い、可能性の無限に近く豊かな空間を想定することが、何だろう、より「本来的な」在り方かもしれない。俺はひとまずこの道を取ろうと思う。