USELESS

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今日も幸福だった。朝起きて仕事して新しい事業の計画をたて、ページのデザインを考え、適当に飯を食い、雑務をこなし、また別のアプリのリレーショナルモデルを考え、スキーマを書き、環境に落とした。帰ってきて適当に飯を食い、新しく取り入れたいAPIライブラリのデータベース接続を試した。散歩をし、OneOhtrixPointNeverを聴いた。夜空が晴れていて、雲が輪郭を象っていた。それは犬に見えた。猟犬が獲物を追いかける。例えばウサギなんかを追いかけるとして、二兎を追う者は一兎をも得ずだろうか?というか、ウサギの肉って美味しいんだろうか?美味いか不味いか、それは知らないが、まあ食えるから猟犬がおっかけるわけだ。そして肉を食う。獲物を捕らえ、肉体の足しにする。食わなければ生きない。だがどうして俺たちはこんなに肉体を憎んでいるのだろう?肉体への憎しみは、そこに価値の隷属性が認められるからで、肉体から流れ出るものはいやしく、醜い。経験的な主体とは肉体的な主体であり、人類は常にこの経験に対する憎しみを内に抱えながら、到達することのないヘブンー超越的世界を夢見ている。私たちが本質的に求めているのは超越的経験であり、全ての芸術活動、仕事、あるいはセックスは「あの瞬間」を求めている。それなのに肉体が足を引っ張る。肉体が全てをスポイルする。だからこそ人間はその憎しみゆえに猟犬としてウサギを追いかけるのだ。二兎も三兎でも追っかけて、そして自らの肉体に追いつかれないようにする。そこではもはや一兎を得るかどうかは問題ではない。