USELESS

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エヴァって昔見たけどどんな話だったかなと思ってNetflix契約して一気にBingeした。TV版ね。やっぱ面白いね。多分5年ぶりくらいに見てまあ自分も年とったわけで客観的に見れるのだけどまあエヴァンゲリオンの魔力を捉えるとすれば親和性(あるいは神話性)ですよね。誰もが、まあ分かる人には分かるけど、誰もがこの物語の中に自分を見出している。それが、カルト的になった理由だろうね。個人的には私にとってエヴァの真の主人公はシンジでもなくミサトさんでもなく碇ゲンドウなんだけど、なぜなら彼の個人的な苦悩に物語の動機が全て詰まっていると感じるから。それは喪失の感覚で、人はこの感覚と一緒に平和に生きていくことができない。だからこそ追い求め続ける。それがどのような形であれ。プラトンの饗宴の中に、こんな一節がある。人はかつて男女がつながった一心同体の一つの個体がいた。2人の人間が、4本の手と4本の足を持って2つの頭でいた。このタイプの個体と、男の個体つまり男男と、完全な女である女女とがいたそうな。ところがなんだかんだあって神の手によって男女は2つに切り裂かれてしまった。それ以来、両者は片割れを求めて彷徨い続けているとか。。。(記憶が曖昧だけど)。で、この神話にあるような「失われたつながり」というものがエヴァの通奏低音としてあり、碇ゲンドウはユイの亡霊を求めて同一化を目論見る。これはゼーレの掲げるほうの人類補完計画とは違ってより個人的な感覚であり、それは視聴者の個人的な感覚とリンクする。ゼーレの補完計画は使徒と人間の間の合一であって、これはどちらかといえば聖書的な、楽園追放以前の状態を目指すような感覚に近い。これは超越的合理の世界であって、人間である私たちが親和性を覚えるものではない。よって碇ゲンドウはある意味で過激なプラグマティストとともとれ、そしてそこにエヴァの悲劇性の源泉がある。そしてその悲劇は碇シンジおよび主要キャラに伝播していると思う。(シンジおよびアスカの苦悩は幼児期の抑圧が境界性パーソナリティにつながっているみたいなことも言えるだろうけどそれは誰もが分かることだろうと思うのでさておく)。というか主要キャラほとんど病みすぎててウケるな。数少ない「まとも」なキャラがクラスメイトの鈴原トウジおよび委員長なんだろうけど、トウジがエヴァのフォースチルドレンになって殺され(かけ)ることに象徴的な意味合いを感じた。つまり、ドストエフスキーの白痴に見られるような示唆として。トウジは聖人でこそないかもしれないが、妹がエヴァのために傷ついたことで少なくとも「怒る」ことができるキャラとして紹介されるし、そしてエヴァに乗る理由が妹のためなら、、というところで。まあ、無惨にもその愛が利用される訳ですけども。だから彼の扱いが新劇場版でなくなってるのは少し寂しいものがあるんですよね。やめてよ父さん!アスカが中に乗ってるんだよ!よりも、淡々とトウジが消されてる方が来るものがある。でも私たちはあくまでトウジではないんですよね。私たちはシンジであり、アスカであり、あるいはミサトさんとして物語を獲得しているから。庵野もそれを分かっていてトウジを後退させたのかな。そう思うと憂鬱だな。。。他にも絶望的なことは色々あるけれども、さよなら全てのエヴァンゲリオンしてくれて良かったのかもな。。。と今になって思う。少なくとも絶望的な話題に終止符を打った、という点で。