USELESS

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「私が独房に放り込まれたとしよう、1時間もすれば、私は何をしようかと気を揉むだろうね。でもね、心に浮かんでくることは全てしなくたって良いんだ。実のところ、この私には何もすることがないからね。私に課された義務は何もない。そうでしょう。でも私には何かの義務を探そうとするだろう。何故なら、私は思うのだが、そのような”義務”がないにも関わらず自己を保つのは難しいことだからだ。つまり、”私”とは何かの目的に向かって義務を遂行する者だ、と自分に対して説明しなければならない。そうしなければ、自己を見失ってしまうだろう。何かこう、一貫したものが自己の芯に必要なんだ。 でも私は実を言うとその独房において自己を失いたい。それが私の求めているところなんだ。なぜなら、私がより強く、固く、揺るぎないものになるほどに、私はますますその独房に閉じ込められてしまうからだ。私が学ぶほどに、考えるほどに、何かをするほどに、私はずっと堅固になると同時に、盲目になってしまうのだ。この事実について、私はうんざりしている。 お前は何が好きなのかなんて、何をしたいのかだなんて、くだらないことだ。どんな美学だって最悪だ。そいつらは否応なく自己のだぶついたものと一緒にやってくる。私はそのために窒息しそうになるのだ。私は自分が強固すぎると、本当に参ってしまう。私は受け入れたり、拒んだり、気に入ったり、気に入らなかったりして、こいつで私はおかしくなってしまう。つまり、私が何か特定の経験を求めるとき、そこにはこの手の審判があるということなんだ。好きだから、欲しくなる。そしてそいつを追い求めるようになる。でも次第に、私はこれがちっとも適切ではないことに気づくんだよ。そして、私はますます自己という名の独房に閉じ込められていることに。 私が気に入らないことはね、つまり人生が経験に基づいていることなんだ。何かをして、何かを手に入れて、それで幸せかい?ってね。これが私たちのスローガンなんだ。もし人生が、私たちに理解できない仕方で、美しいとすれば、そこに目的がないからだろうね。技術的に言えば私たちは他の動物とは違わない。でも私たちは誰かの人生を美しいとみなすことがある。その時、私たちはその誰かについての物語を通じて判断する。そうしなければ、膨大な量の整理されていない情報を理解できない。同様に、私たち自身についても、ある一定の便宜的な物語を通じてしか理解することができない。つまり、私たちの思っているような種類の人生の美しさとは、私たちの作為的な見方によるものだ。しかし、そう知りつつも、私たちは他に人生のカタルシスを経験する方法を持たない。そして私はこの手の美しさにうんざりしつつも、残念ながら無視できない。私は美しいと感じることを行い、価値のある仕事に従事し、素晴らしように思える音楽を聴き、すごいと感じる映画を見て、美しい人と付き合い、楽しくなれるゲームをプレイする。他の何かではなく。他の何かではなく、それらを。私の選んだものを。なぜ私は1人になれないのか?なぜこんなにも邪魔されるのか?つまり、そうした経験にこんなに魅了され、楽しくなり、興味を持たされてしまうのか。私は好きなことをしている時に幸せだと感じるだろうけれど、でもそれはちっとも私を本物らしくしない。物事を”気に入る”たびに、私は自らの肉体を暴力的に奪っている。 私が恐れているのは、そうして物語が自分を捕らえることだ。そして動詞が要求する主語を偽装してしまうことだ。主語のない物語?不可能だ。だから私が物語の中に入って夢中になる時、私はやがて自己のために苦しむことを思いみる。クソ、つまり私は目の前のいかなることに対してもやる気になってもいけないし楽しくなってもいけないってことだ。ほら、私が何かをするとしたら、静的な命令みたいになっていなくちゃならない。自分の意志ではないかのように。それがせめてもの抵抗だ」 この演説は少し混乱している。つまり、自己そのものに対する批判ですら、自己を前提にしなければならないという点を無視しているが故に、実現不可能な提案にとどまっている。 動詞が伴う主語にまつわる錯覚に惑わされてはいけない。便宜的な”私”と、形而上学的な存在としての私を、混同してはいけない。行為を、純粋な形式としての行為として捉える能力が私たちにあったなら、私たちに自己意識は必要なかっただろうと思う。歩くが歩く、話すが話す、食べるが食べる、そんなものは私たちのの理解を超えている。仮に異星人が、高度な知的能力と文明を持っていたとして、主語という意識よりも便利な方法を想像することはできない。 プラグマティックに、私たちにできることは、混同を避け、自己の「不在」を受け入れることだ。私たちはすべからく効用の世界に生きているが、かといって一つの世界だけに留まっていると断言もできない。美しいものにも平凡なものにも神秘性は宿っている、と言えないだろうか。そしてそれは個人の美学的判断それ自体においても当てはまり、効用的な美学と神秘的な美学として分けることも(まあ少なくとも精神衛生上は)いいと思う。あと、そのような意味合いにおいて、バタイユの「賭け」みたいなものも理解できるように思う。