USELESS

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物語を追う際に意識するのは力の構造で、どこに力があり、どこにないのか、そしてどこに意志(あるいは魂)があり、どこにないのか。最近読んだ漫画で、なるたるって2000年前後くらいのやつなんだけど、読んでて。少年たちが竜の子と呼ばれる万物に変化できるペットと邂逅し、竜の子は子供とチャネリングして少年少女の意のままに操ることができる(すごく雑に言うとデジモン的な感じ)。感覚も共有する。万能の神のような力なので、使いようによっては人も殺められる訳で。主人公含め少年少女が10人かそのあたりを巻き込んで世界そのものの暗転をも左右するようになる云々なあらすじだ。でもその力を使っているのが子供ってところにミソがあるよなと思って。つまり、彼ら10代の少年少女には意思や欲望こそナイーブな形であるものの、それが達成されることはまあ大人になってからの話で、達成されることはない。大人になれば住む場所も、行く場所も、付き合う人間も、ある程度は自由にできる。それは力を持つこと。でも、子供には選べない。親を選べないように、学校を選べないように、そして運命を選べない。こうした不条理性こそが子供たちにとっての世界であり、このあたりの暴力性を描いている漫画に思えた。で、この、力を必要としていた子供が、共通して竜の子とチャネリングしているように見えて、だからこそ登場人物には子供ながらに半ば脅迫的な目的意識がある(アキラのように無意識にしろ)。いくら勉強を頑張ったところで、親は変えられない非力さに、力を与えればどうなるか?それは親殺しとして帰結する。力だけでは何もできないが、意志だけでは何もできない。意志は力を召喚するけれども、力を手に入れた者は意志を持つ(抑圧されていたものを思い出すと言った方が正しいか)。加えて、10代の少年少女という者は、何ができて、何ができないのかの線引きを知らない。そこが危うさでもあり、特権的でもある(そしてそこがなるたるの神話的カタルシスを生み出しているように思った)。劇中で、シーナの父さんが象徴的に語るところには、航空機のパイロットが無謀とも思える飛行をできるのは、できることを知っているからで、無知ゆえの無謀ではない。とかなんとか。しかし知ることは逆に言えば往々にして行動を妨げることでもあって、知らないからこそトライできるのが子供のポテンシャルでもある。どちらかといえばそのダークサイドにスポットライトが当たっているけどね。たとえばセックスや暴力は、大人と子供とでは意味合いが違う。物語の中盤で出てくる、いじめっ子に対する報復のクソミソになる半ばリョナっぽいゴア描写は、子供がやっているからこそ来るものがあり、殺し屋1みたいなヤクザがやるようなゴアよりも私には気持ち悪い。著者の性癖だとしたらドン引きするけど。でも絵柄は好き。線の細いガリガリの子供は本質的な脆さを思わせる点で。思えば作中に出てくる大人もほとんどガリガリで、まともなのはお父さんくらいなんだよな。 竜の子は絶対的な力として魂を求める存在だけれども、なるたるに出てくる子供たちに限らず、子供(ジュブナイル)とはある意味で魂だけの存在であり、それは非力であることの象徴だ。なぜ子供限定で竜の子が現れるかはそれゆえであると思う。力があり、そして意志を持った子供が生まれるなら、そこには選択があり、そしてそれに伴う不安がある。最終的に子供は自らの狭量な”世界”と世界全体とを重ね合わせて、それ自体を裁判にかけるが、作中の須藤くんだっけ?彼はもうちょっと上手くできたように思う。というより、この漫画はところどころ惜しい部分がある。そして何よりエヴァの後追いになってしまったのが。