USELESS

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形の見えないものを触ろうとしていくプロセスの中において創造があり、それはやがてリアルになるということだと思う。例えばホラーゲームをプレイするじゃないですか。最初は何が出てくるのか分からないし操作も不慣れなものでどうしても怖いんだけど、最初の数回のエンカウント(いわゆるJumpscare)と数十分のプレイで世界が手に取れるようになる感覚がある。無数の可能性は何が起こるのか分からない未知のものであって、人間はそいつに対して怪物だと感じる。なぜなら万が一の時にすぐに逃げられるように心拍数を高めておかなくてはならないから。しかし学習によって恐怖の範囲が狭まるにつれて私たちはより大胆に行動ができるようになり、ひいては自らで現実を選び取るようになる。現実とは可能性の集合であり、私たちは現実をリダクション(Reduce)することによって選択している。それはいわばヴァーチャルなデザインであり、現実のモデル化なのだ。人間がモデリングを行える力を持つにつれて、現実とはもはや私たちにとって共通の理解ではなくなった。そもそも、現実とは便宜的なものだったからだ。狩猟採集民が現実を共有することによって得ていたベネフィットは私たちにはあまり残されていない。いつだったかフルッサーを読んだ時にこの人は20世紀にすでに現実の投企について書いていて、その重要性は今日においてより増しているように思う。私が目的に向かうのではなく、目的が私に向かう。私が現実を見るのではなく、現実が私を見る。他者の存在ではなく、他者の現実を愛することにおいて想像性を働かせよう。その時に私は現実を狭めていて、しかし狭まっているにも関わらず豊かさを享受することができる。私たちが全一者としての無限を獲得する(ことができるように思う)のは自己存在にまつわる本質的な隷属性を逆転させる時であり、ニュータイプは皆そのことを知っている。