USELESS

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自分の家にゆったり座れるソファがないので、無心でゆったり座りて〜って時に映画館に行く。年に23回。でショーシャンクの空にを観た(10億年前に観たけどほぼ忘れてた)。日本語のタイトルが良くないよね。原題がshawshank redemptionで、シャーシャンク刑務所が贖罪する(かのように見える)ものは原罪で、つまり司法や国家という名のシステムが孕む暴力性だ。で、映画の前半80%くらいまではこの罪の描写に終始しているのだけど、ショーシャンク刑務所の不正や何かが暴かれたとしてそれを裁くのもまた司法であり、脱獄すること、あるいはより正確にいうならば仮釈放は解放には映らない絶望がある。その点において現代人はすべからく囚人だともとれ、観客はラストシーンにおいて我々が享受している権利や平和は、監獄という名のバリケードの中においてであることを悟る。司法や国家は暴力性の中央集権管理であって、そこに依存している国民はすべからくこの原罪に加担している。しかしこの罪を背負わずして生きることは不可能であり、私たちは単に手を汚していないだけなのだと。主人公のアンディは最終的に脱獄に成功して大枚も掴んでハッピーエンドかと見えるが、そうでもしなければ、つまりは司法を無視することでしか幸せを勝ち得ないことに暗さがある。ここにショーシャンクの原罪があり、これ94年とかだっけ?今でも数年前のジョーカーのような映画を見るにつけて政治システムの不可能性に対する落胆と諦めがあり、まずはこの不条理性を素直に認めることが必要だよなーという共通認識がもはや最近はあると思う。それでこのあと30年後にどんな映画が観れるのかを考えてみればいい。結論から言うと全ての映画はアニメみたいになると思っていて、映画は現実の写し鏡ではなくなる。私たちはもう現実の写し鏡に疲れきっているから。私たちは不可能な現実ではなく可能な幻想を好むだろう。思えば1950年代にイングマールベルイマンが神の不在を見据えたことが回り回って形を変えて現れるような感じだ。ベルイマンの映画で一番好きなのは(ほぼ全作品を観た中で印象に残っているのは)「冬の光」なんだけど古典的でストレートなストーリーラインの中に底のない絶望があり、人間の精神がアプリオリに孕んでいる不可能性を映画の中で実装したってのがぶっ飛んでいる。で何だろう、その後も何かと映画というストーリーテリングの手法を借りて色々なものを人類は見てきたが、時代背景やテーマを取り替えただけの亜種のように感じられ、それが映画の大衆的性格でもあると思うのだけど、これだけNetflixやYouTubeで大量のコンテンツにアクセスできるようになった今、世界の次の天才が考える陳腐ではないことは一つだけだろうと思っていて、それがアニメ化なんですよね。カメラで撮った映像の物理的な制約や人間の動きに対する倦怠と退屈は、まさしく過去100年くらいの人間精神の挫折の象徴でもあり、そこから抜け出そうとするのは当然の流れだと思っていて。現実の不条理性についてはもはや何も語ることが残されていないように感じるし、オリジナルを搾取することはまだ20年くらいは続くだろうと思うけど、その後は大衆の意識の方が変わっていくにつれて映画も変化を余儀なくされる。荒っぽく言うと、リアリズムはもう流行らない。人々が感じる美学的な認識判断が、(カント的な意味合いでの)神学的な超越的崇高から人間の作り出すバーチャルな崇高を感じる方向にシフトしていくようになる。少なくとも私が美学的に満足を覚えるものは、2010年代に流行ったようなサブカルおしゃれでクールなライフスタイル(不可能性を孕んだ矮小なクソ現実)ではなく「非現実的な合理」を垣間見ることができるもので、例えばデヴィッドリンチなんかは今もう一度みるべきだと思うんですよね。彼のやったことは、人間が避けがたく持っている認識を逆手にとって(極度の不安の中の奇跡的なバランスで)観客に提示したということだから。それはまるでConfield以降のオウテカがビートを提示するとき、そこには常にサーカスティックな試みが(成功失敗を問わず)あるような感じだ。情景やカルチャー、ライフスタイルは提示できない(挫折する)という諦念のもとに絶望的な、しかしオルタナティブなアティチュードを示すものに対して私はその真摯さを評価するし、心から尊敬する。マジで誰かいいやつを教えてほしい。。