USELESS

ARCHIVE

USELESS

去年1年の日記をザーッと読んでて。まとめるとこんな感じだった。 経験に根ざした価値体系とその追求に対してずーっと疑問があった。つまり、どんな至上価値を想定するにせよ、それが経験的主体であるところの理性存在(私の頭)から生まれ出る限りは、私は経験の奴隷となり、私はとうとう経験の中で突っかかったまま死んでしまう。推論的な理性の働きはすべからく挫折に終わるだろう。それはよりマシな苦痛を選択するという意味合いしか持たず、それが証拠に皆が皆、若さを気にしている。あと、私はある日こう書いていた:「俺は何かに成功するたびに自分が死んでいくのを感じる。理性がその強かさを発揮して最もらしい解決を示すたびに、俺は気づかぬうちに背後から皮を剥ぎ取られ、地面を血に染めながら前へ前へと進んでいく」とかなんとか。 そんな中で気づいたことは、オルタナティブな形での快楽があるなということで。つまり自らが昇っていくのではなく、むしろ全てを地に引きずり下ろす形での至高性がある。もし上に何も見るものがなければ、その時お前は至高性を獲得している。しかしそのプロセスは獲得するというよりも打ち捨てていくといった方が正しい。経験的な価値体系のシステムが私に高揚感を与えるとしても、それを受け取ろうとはしないような態度だ。むしろ、その時こそ「これいらないじゃん」と気づくチャンスで、丁寧にゴミ箱まで運んで捨ててあげよう。私はそうした実践的な虚無の可能性を想像した。 要するに、合理的な経験の追求が、やがては袋小路に迷い込むのであれば、取るべき道はただ一つ、前を向きながら後ろに向かって歩くことだと思う。これは決して怠惰になることでもなく勤勉になることでもなく、ある種の強迫性を持って物事に取り組みつつ(そうしなければ私たちは経験的に対象に到達できない)、そして対象を軽蔑して唾棄することだ。その時に理性はバタイユの言うところの裸形の快楽みたいなものを感じるんだろう。知らんけど。はい、まあそういう感じで今年はやります。