USELESS

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時間芸術の究極的な問題があるとすれば時間そのもので、時間にまつわる倦怠感を克服することにカタルシスがある。なぜなら人間は時間と自らの死を切り離して考えることができず、常に時間は恐怖をもって私たちを辱めるからだ。しかし私たちは時折、時間を超越することに成功する。あるいは、少なくともそうした感覚を得られる瞬間がある。そして時間が常に仮想的なものである限り、芸術は果敢にもそれに対して挑戦することができる。そのやり方の一つは、人間がアプリオリに持っている時間に関する認識を逆手にとることだとデヴィッドリンチ見てて思った。前置きが長い。 インランドエンパイアを見た。内容は忘れてたので、多分ずっと昔に初めて見たんだと思う。おかげで新鮮な気持ちで観れました。私は何回も繰り返しみて研究するような映画の見方は好きじゃないので、新鮮な印象で書きますね(すまんこの先Spoilerかも。。。)。このホラー映画が扱っている恐怖はかなり原始的なもので、それだけに刺さるものがある。劇中にメタファーとして登場するマイナスドライバーのように。腹に深く刺さって、しかもなかなか死ねないような不快感がある。その不快感は何かというと、自己が崩壊する恐怖だと1度観れば思い当たると思う。自己を定義しろと言われれば、あなたは職業が何で、性別は何で、何歳だとか、そういう物を思い浮かべるかもしれないが、それ以前にアプリオリなロジックが存在していて、時間と空間に関する変更不可能な定理がある。時間はまっすぐに進まないとすれば、そして空間が単一でないとすれば、自己の連続性、あるいは同一性を説明できず、全ての自己に関する認識は疑いの海の中へと沈んでしまうだろう。この映画の観客が感じるのはこの溺れていくような感覚で、現実を現実だと認識できないときに、自己は頼るべき土台を失う。それは(数々のホラー作品が甘んじてきた)死の恐怖を超えているかもしれない。その恐怖が絶頂に達するのは、主人公が映画館のスクリーンに映る自分が映画館のスクリーンを見ているのを見る時で、その時に怖いのは観客である私たち自身もまた鑑賞者としてそれを眺めているということなんだよな。これはビビった。もし時間が手続き的なプロセスではなく再帰的なプロセスなら、私たちは別の時間を想定せざるを得ず、この私以外の私が感じている時間を想像する時に私は私ではなくなる。なぜならそこに単一性が存在しないなら、自己の同一性を認める意味は霧消してしまうからだ。もし自分が自分ではないなら、なぜあなたは頑張るのか?つまり、幸福や楽しみや人生の仕事に対して、そこに実存的なコンテクストが見出せるのか?時間を失うことは、物語を失うことに等しい。その瞬間に見出すものは恐怖なのかもしれないけれど、恐怖という感覚すら意味を失うことに恐怖するといった方が正確だ。しかしなぜかインランドエンパイアの終幕で感じるものは恐怖ではなく恍惚としたカタルシスで、それは何かこう肩の荷が取れたような、今まで無意識に感じてきた倦怠感が取れてなくなったような感覚なんだよな。まるで永遠が私の元に迎えにきたように、もう案ずることは何もないような涅槃が映画の中に収められているような感じだ。それは全ての可能性を包み込むように、あの自分やこの自分(劇中には複数のニッキーが登場する)をすべて抱きしめるようでいて、優しい。昨日は常に失敗であり、明日は常に恐怖で満ちていて、今日については説明ができないが、そのどれもが解放されたような感じだ。つまり、自己を喪失するプロセスは豊かさへと続いているにも関わらず、私たちが潜在的に抱えている恐怖がそれを邪魔している。そしてこの恐怖は今後もっと色々な形で検討されるべきだと思う。例えばBioshockが証明したようにゲームは極めて没入的な(つまり他人事ではなく自分ごととしての)ストーリーテリングが可能な媒体だと思うんだけど、そこに自己にまつわる観念的な問題を絡めるととても美味しいと思うんだよな。最近遊んだもので言うとAmnesiaとか出したFirctionalGamesのSOMAは良作だったと思っていて、なぜなら主人公の自己定義が崩壊するマインドファックな恐怖を取り扱っていたから。ホラーゲームにおけるJumpscareはエンタテイメントにこそなれくだらねーと思うし、P.T.があれほど後世のホラーゲームに影響与えたのも、新しい形での心理的な恐怖を紹介したからだと思う。次に遊びたいホラゲーが出てくるとすれば(もうほとんど興味が湧かなくなった)、SF的な設定で、自己のConstruct(サイバーパンク作品に出てくるような自己のコピー)と対峙するようなものが良いですね。SOMAも近いんだけど、多分もっと良いのが出てきても良いと思うんだよな。ゾンビとかモンスターとかお化けはもうどうでも良いです。なぜかホラゲーの話になった。でもゲームのデザイン感覚がそのままメタバースなんかにも繋がっていくと思うから、そこで個人的な時間をどうやって解決するのかは見ておくべきものがあると思う。なぜなら人類はシミュレーションの中で不死を願わずにはいられないだろうから。そして無限の時間が与えられた際に音楽はどう聴こえるのかということにも私は興味がある。そこでは音楽は空間の表現に近づくと思っていて、ミュージシャンは表現の積をパッケージとして提示するようになるだろう。つまり、これまでのリスナーだったものはこれまでのミュージシャンに近づき、これまでのミュージシャンだったものはこれまでのハッカーに近づく。要するにより多くの人口がソフトウェアとしての音楽を提供できるようになったとき(イノベーションの流布)、バーチャル空間での音楽体験は時間を克服し、人々は退屈を忘れて踊り続けるだろう。かなり話飛んだけど、インランドエンパイアの劇中劇のタイトルがOn high in blue tomorrowsなんだけど、時間の概念を超えたもっと上の方に何かがあるみたいなことなんだろうなと私は解釈した。終わり。