USELESS

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認知のスキーマの外で考えることが難しく、往々にして私たちはその罠にハマっている。例えば時間という感覚を持った瞬間に人間は死と老いについて考えるものだけど、時間の外にある可能性の集合については考えることができない(沈黙せざるを得ない)。何だったのかは忘れたけどインディアンか何かの民族にとっては時間とは再発的な、円環的な現象で、彼らは時間の不足や老いというものに悩まされることがない。逆に予測的な、計画的な行動はできないそうだ。つまり問題空間が、我々の認知的なスキーマによって制限されている。あとこれも有名な実験か何かだったと思うんだけど日本人とアメリカ人に魚の入った水槽の写真を見せて、これを言葉で説明してくださいと指示する実験があった。日本人は背景、つまり水槽の中の水草や置物に着目する傾向があり、アメリカ人は個別の魚に着目する傾向があった。集団か、個人に重きを置くか。すなわち人間の既存の世界観の中でしか物事を捉えられず、その外にあるものについては無視してしまう。問題空間の外にあるものは存在しないも同然であり、無視する方が脳は楽だから。日本人は英語の音も存在しないので、無視してしまう。 あと日本人が「勉強になります」っていう時、まあそれは社交辞令というか内容がないんだけど、これほど勉強になってない場面もないよなと思う。学ぶことは既存のスキーマを修正・拡張していく試みで、それは知識を上塗りしていくような作業ではない。私があースッゲー学んだと思う時、そこには世界の捉え方に更新があり、それがない限りは時間の無駄だと思う。例えば化学を勉強するということは、世界を分解可能なものとして捉え直すことだ。そして職能的な成長があるとすれば、業務上の問題空間に対して更新を加えることであって、それは知識をベタッと上塗りすることではない。そんなものはググれば済む。必要なのは、問題空間(つまり論理的な因果関係のネットワークグラフ)の中でノード間のエッジを伸ばすことであって、それが抽象的なレベルにまで高められていれば、問題解決の目星は自然とつくので、あとはさっさとググれば良い話なんだよな。私は良いエンジニアと悪いエンジニアが、その人のコードを見ずとも分かる。良いエンジニアは問題を定義する方法を学ぼうとし、悪いエンジニアは問題を解く方法を学ぼうとする。対象の領域において適切なスキーマを構築できるならば、無駄なことを考える時間が省けるので、自ずとスピードは上がる。 しかしもっと重要なのは既得の認識のスキーマを時に捨てることで、捨てられる人は(どんな分野であっても)打ち手が常に鋭いと感じる。これが難しいことで、なぜならそれはある意味において自己を捨てることを要求するから。それはとても怖いし、完璧で安住できる世界から外に飛び出すってことだ。問題解決の試みは(それが実務上のものであれ美学的なものであれ)問題の定義においてその精度が現れる。それに対して私がおすすめしたい方法は時間を置いて忘れてみるってことかな。どうも集中していると視野が狭くなるので。視野って良い言葉かもしれないな。詩人の目が一般人のそれと違うのは、その目が見ている問題空間の粒度に差があるからで、これはGMワインバーグの一般システム思考入門に書かれているので領域を問わずに人にオススメしたい。 そういえばこの前ウディアレンのマンハッタンを観て、まあ3回目くらいなんだけど、要約するとニューヨークのマンハッタンに住むインテリのスノッブどもが滑稽な群像劇を演じるという内容で、キャラクターの中でただ1人滑稽でないのはウディ演じる主人公の恋人の17歳の少女で、なぜかというと彼女だけが問題を抱えていないから。正確に言うと、彼女は他の大人が持つ実存的な問題のスキーマを通じて世界を見ていないからなんですよね。それ故に疑いを持たず、純粋な恋愛に、あるいは人生というかキャリアに身を投じることができる。それが他のキャラクターにはできない。彼らは逃げ腰で、その場その場の情事や仕事の実務的な問題で気を紛らわすことで精一杯になっている。なぜか?それは彼らが真に信じるものを持たないからであり、またそれに気づくほどには知的だからだ。対して17歳のトレーシーは未だ無垢であり、ラストのセリフが象徴的なんだけど、彼女はウディ(未練タラタラで引き止めに来る滑稽な人間)に対して"You have to have a little faith in people"と言う。イングマールベルイマンの描いた少女の無垢性を思い起こさせるセリフだ。ウディアレンはベルイマンの「神の沈黙」をコメディに昇華した天才で、解決が不可能な形而上の問題のもとで転がりまわる滑稽なインテリの群像を描いた。愛は目に見えず、ただ想定するだけのものだけに、ウディアレンの映画に出てくるインテリはそれを疑う。そしてその愛らしきものは肝心な時に限って沈黙する。 押井守の天使のたまごも信仰と沈黙の物語だと個人的には解釈していて、物を語らない卵に愛を注ぐ少女は、卵の破壊という不条理を見るのだけど、その時に彼女は大人の姿として現れるんですよね。それは一つのスキーマが壊れる瞬間であり、そしてまた新たな世界の誕生を意味している。わたしたちが「あー自分なんか大人になったな」と思うのは成人式とかではなく、むしろ何か一通りの物を経験して、そしてそこに対する重要性を持たなくなるプロセスにおいてであると思う。いつまでも子供のおもちゃで遊んでいる訳ではないし、サンタクロースも信じなくなる。なぜならそこに沈黙を認めるから。そして、わたしたちはやがて世界に対する認識を修正していく。そしてそれはこの映画を見ている最中にも起こることで、最後にタルコフスキーの惑星ソラリスよろしくカメラが引いていく長尺のラストシーンがあるんだけど、その時に少年がいた大地はわたしたちの想定していたものとは遥かに違うことを学ぶ。で、その瞬間にわたしたちは身震いするような感動を覚える。それはあれほど強く見えた少年の矮小さを思い見るからで、そしてわたしたち自身がこの比喩を通じてより大きなものに還元されていくように感じるからだと思う。 それ故に私が(どんな関係であれ)パートナーに求めるものは極めてシンプルで、自分を崇拝しない(信仰は失敗に終わる)、そして私と同じスキーマで物を考えないような人が理想だ。似た物同士は惹かれやすいと言うけれど(確かに一緒にいるのは快適だ)、でもそれは問題空間の外に出られないことをも意味している。思い出してほしい。攻殻機動隊の漫画のラストで人形使いと少佐が融合するシーンで、オリジナルのコピーは、それがどれだけ複製可能であったとしても、特定のウイルスに対して抵抗を持たず破滅すると意見が合致する。あと最近23年くらいイケてる人の言ってることを見ていても思うんだけど、他力で物を考えるという方向にシフトしているように見えていて、「あの人だったらどう考えるか」みたいな視点で考えてるのよね。あるいはそういう個人的なシンクタンクとしてのネットワークを持つか。それはやっぱり個人が個人であるためには個人というスキーマの枠を持たざるを得ず、しかしそれが一方で思考や感性を制限しているから。そう、音楽を聞くときに何を評価する?私は主にリズムの多様さと整然さ、ハーモニーで評価しているんだけど、一方でボーカルの声や歌詞を重視するみたいな人もいる。故に私にとっては完璧な(=つまり全ての評価軸で満点の)ものが、他者にとっては完璧ではない。なぜなら我々は問題空間を、つまり認知的なスキーマを共有していないから。考えてみれば当たり前のことなんだけど、問題空間の外にある物事に気づくことは極めて難しいし、我々は往々にしてそれらを無視し、時にナンセンスだと決めてかかる。もしイノベーションを実現したいのなら、極めてクリティカルなアイデアや作品を提示したいのなら、個人という枠を意識的に外れることが肝要だという風潮になってきている。なぜなら人類はこれまで個人主義の歴史を十分に見てきたから。 東京に3年くらい住んでいて、面白い人にたくさん出会った。それぞれの分野やカルチャーの中で独自のスキーマというか考えの癖みたいなものを確立している人と話すと、発見がある。シリコンバレーがなぜあれほどに集積したのかを思いみれば、都市に住むことの恩恵は、都市という脳を借りることだと思う。それでもなお私の夢は森の中で1人静かに暮らすことなんだけど、その夢が実現するのは私が全てを知った時か、人類が滅亡したときだろう。