USELESS

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Zガンダムを見た。各キャラクターの群像を通じて、個人が社会で生きることの悲劇的な結末を描いていたと思う。社会関係なくして個人はあり得ないが、しかし皮肉にも社会が個人を殺すことがある。そこに個人として生きることの根源的な不可能性があり、最終的な帰結は絶望的かもしれないことを示した。ゼータガンダムの舞台も宇宙に人類が移住した後に起こった戦争になるわけなんだけど、登場人物はすべからく軍人で、つまりは政治の駒で、軍人として生きることは政治的コミットメントの象徴的な人格として生きることを意味する。しかし彼らは軍人である以前に同時に私人でもあるわけで、この軍人と私人の間の葛藤がそれぞれのキャラクターに現れてくる。まあそれが50話くらいを通じて重層的に描かれていくことは短尺の映画ではできないよなと思う。基本的にガンダムのキャラクターたちは個別に自らの危機的な軍人と私人とのバランスをとろうとしている。しかしそれらは見る限りでは失敗に終わっていて、最終話にかけて悲劇的な結末を迎えていく。個人への渇望と、その挫折という物語って感じ。社会に対する政治的コミットメントが、個人を(精神的に)殺し、そして他者を(物理的に)殺させる。つまり、人の間と書いて人間と呼ぶけど、人間である限りは、そこに社会的な関係性への義務が生じる。他者からの完全なデタッチメントなどあり得ず、個人は社会的な他者を前提としなければ個人が個人である意味を失う。しかし社会的義務を果たそうとする限り、そこには常に個人的なものへの渇望が生じ、その個人というもののふわふわとした曖昧さから個人は不安に陥り、迷った末に破滅することもある。社会が個人を形作るのか、個人ありきで社会にコミットするのか、そのどちらが先なのか分からず、人は迷う。ゴリラと同じように支配構造の頂点に立とうとすることが解決なのか、あるいは社会の中に居場所を見つけるのか、いずれにしても犠牲を払わなくてはならず、登場人物は葛藤する。 要約するとそんな感じで、いくつかのキャラクターを拾って考えてみる。カミーユは最後に回そう。 まずある意味でブレてないのがファーストガンダムから続投のブライト艦長で、彼は完全に組織構造の中に埋没した人間として描かれており、軍人として以外の顔をほとんど見せなくなってしまった。家族を食わせるためだと自分を納得させて単身赴任している父親と変わらない。時折、パイロットたちの個人的な要求を許容するようにも見えるんだけど、やはり個人を無視しているように思う。それが組織における有能さでもあるんだけどね。むしろ、立場が彼に個人を封印させているとも取れる。逆に個人を優先させたレコア中尉は最終的にニュータイプですらなくなってしまっている(カツの死に気づかない)。エマ中尉がレコアに迫った時に、これが私の選んだ道よ!とか言って強がるんだけど究極的には孤独に喘ぎながら死んでいった悲しい人。個人であることそのものが孤独だという根源的な問題に気付かずにエウーゴを捨てシロッコ側に就くんだけどそこでもやはり彼女の思い描いていたような個人は果たして実現できたのかどうかは疑わしい。エウーゴにいた前半はたびたび自殺願望を見せるんだけどそれはやはり死というものが彼女にとってはあくまでパーソナルなものであって、最後に残された砦のようなものだったからかもしれない。で、彼女のすがったシロッコはというと完全に中身空っぽなゴリラで、とても虚しいキャラクター。全ての行動が手段であり、その根っこにある動機はゴリラが支配ヒエラルキーの頂点に立とうとするのと変わらない。そこには個人的な偶発性は認められず、たとえ彼がカミーユに殺されずに全てを手に入れたとして、何を思うのか?よくいる、何でも「うまくやる」ことが至上趣味の意識高い系の人のような虚しさがある。それはシステムがより良い状態を維持獲得しようとするようなホメオスタシスのような意思のかけらもないもので、だからこそ彼は暴力的なまでに容赦がなく有能なのだけどね。彼に漬け込まれたサラ曹長は個人を知らないまま社会的人格を個人的人格として錯覚するけれど、世の中にはこういう人もいる。しかし彼女は社会的人格を守ろうとしたあげく、自らで定義するタイプの幸福を知らずにシロッコを守って死んでいって社会の暴力性の犠牲者として終わってしまう。サラへの想いを強く抱いていたカツは結果としてアーガマ艦という小社会の中では極めて個人的で自分勝手なようで浮いて見えるんだけど、それが他の「大人」たちとの対比になっているんですよね。何というか、純粋な気持ちで憧れて業界に入ってきたはずが、その中身の空洞性に気づき愕然とするような若手社員のような匂いがする。ファユイリィはカツよりは大人ではあるんだけど、少なくとも前半は女であることや子供であること、そして女性としての母性を拠り所にして個人の領域を守ろうとしていたように見えるんだけど、やがて物語の後半になるにつれてカミーユが社会的役割へのコミットメントに自覚するにつれて彼の奥さん的な立ち位置に安住してしまうようになっていて、それは個人的な感覚であると同時に彼女には自分以外にはこの役割はできないという自覚も芽生えているように見える。 で、肝心のカミーユはというと、決定的な改悛があると思っていて。それはフォウが30話あたりで死んだ後になるんだけど、カミーユは能力を持った最強のニュータイプ人間として自覚を持ち、周りが求めるものに応えるようになるにつれて(最初は少なくとも好き勝手やっていた)、やがて個人的な自己が霧消していく。彼は軍人として「成長」していくが、それは自らが所属する社会への政治的コミットメントが、自らの意思に反して殺しを要求するということなんですよね。実際に彼はそれまで敵を撃破するのを渋っているように見えるが、もはや最終話では「お前なんか、生きていちゃいけないんだ」と叫びながら偏見を持って敵を抹殺するようになっている。つまり、社会で居場所を獲得するということ、責任を果たすことは、社会が本来的にもつ排他的な暴力性の代行で、しかしそれは自らが苦しまずに生きる手段でもあるというところに葛藤がある。49話くらいでエマ中尉に対して「敵を生き延びさせてはいけません、でなけりゃこんなところ、息苦しくって...」とか何とか言って自殺を図るんだけど、ここに彼の見ている地獄がある。つまり彼は社会における責任を果たして自らの居場所を守ろうとしなければ、不安な個人として拠り所のない「宇宙(そら)」に放り出されることになり、それは死んだ方がマシだってことなんだよな。彼は最後にシロッコと対峙した際にニュータイプ人間のキャラクターたちと意識上で交わる体験をするが、それはエヴァの人類補完計画と変わらないアイデアのように思える。カミーユが最終的に獲得したものは人格の死で、確かに不安もなければ実りもないような状態に陥ってしまう。そういえばカミーユが自らの責任を自覚するにように変わりはじめてきた時期にシャアが「カミーユビダン。良い方向に向かっているようだが...」と呟くんだけど、これが私には象徴的で、シャアは彼の不安を鑑みていたんだよな。私はシャアが最も視聴者に近いキャラクターだとは思う。彼はいかなるコミットメントをも回避し、なぜなら客観的にこの社会において個人が生きることの根本的な不安を悟っているからで、それは安易に単一のイデオロギーに流される理由であってはならないと主張して最後まで彼自身の立場を、非ーコミットメントを貫き通すように見える。しかしそれはまた同時に優柔不断でもあり、もはや彼にはファーストガンダムで見られたようなヒロイックな若者の姿はない。