USELESS

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シンエヴァをもう一度観なおした。劇場で初めて観たときは残念だと(開始30分くらいで劇場を出ようかと)思ったんだけど、落ち着いて見なおすと、旧バージョンから21世紀版にアップデートされたなと。 95年のアニメ本編での26話は、人類補完計画(個の全体への埋没)を拒否し「僕はここにいてもいいのかもしれない、ここにいても良いんだ!」からの「おめでとう」で終わった訳なんだけど、それが私の中でのベスト解だった。でも私は最近になって改悛があって、いやそれは本当にラッキーでないとワークしないなと思って。というのも、個人が「私」として生きるには、この時代はあまりにもフラットになりすぎていて、常に結果に対する責任と不安が付きまとうから。つまり、選択と行動を社会における個人の人格として捉えるなら、そこにはコミットメントと責任が生じる。そして結果(つまり現実)は常に(自他ともによる)評価に晒され、不安として現れる。それが旧劇場版における終わり方(アスカの「気持ち悪い」)だと私は解釈してる。個人が「私」として評価される限り、他者とはすべからく脅威であり、だからこそシンジは首しめて殺そうとするんだよな。 だから、自らに絶対的な人格(あるいは主格)を与える限り、つまりは責任を課す限り、それは原罪を背負ったままの惨めな状態に終わるとも言えるんだよね。よって、個人が行動と選択をつかさどる人格としてとどまる限り、人は不条理の地獄に住んでいる。新劇場版のQはこのあたりの不条理性が端的に出ていたと思ってて、シンジは結局ニアサードインパクトを起こして自らの罪に苦しむ。けど、それは彼の選択だとは言えない訳ですよね。なぜなら彼は結局のところ「運命を仕組まれた子供たち」であって、初めから被投性の中で溺れそうになっているんですよ。もしあなたが仕事において成功しなかったとして、それはお前の責任なのか?もしあなたの恋愛が成就しなかったとして、それはお前の努力不足なのか?もしあなたが会社の一端として普通に働いていたとして、それがその会社の暴力性に加担していたとしたら?それは完全にあなたの罪なのだろうか。そして幸福に生きることは個人としての責務なのか? 私たちは往々にして誤解している。自らの選択や意思、行動によって知り、選択することができると、すなわち自分が自分の人生の神であるかのように誤解している。特に21世紀は、あらゆるコストが下がって、もはや金銭的な、あるいは地理的な言い訳ができなくなった時代だ。なぜお前はやっていないのか?お前の「私」を実行していないのか?主知主義的な個人主義は、自らの結果に対する断罪として現れる。あるいは、能力主義のダークサイドとして現れる。たとえば自分の現実がクソなのは自分がクソだからだとくすぶる人間が増えるだろう。あるいは、イデオロギー自体が目的と化すような、政治的な投影に逃げる人も増え始める。そこに個人を絶対的なものとして捉えることの限界があり、シンジくんのごとく「僕はダメなんだ」となるか、アスカのように「有能さ」という病にかかるか、という困難さが庵野秀明の見ていた苦悩であったのだろうと思う。 で、ようやくシンエヴァの話をすると(前置きが長い)、シンジの最終的なアンサーは「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」なんですよね。つまり、戦うことをもう終わりにしましょうよと。個人が「私」である限り背負い続ける脅威との戦いを、原罪を捨て去って解放されようということだ。それは、アニメ版のラストのような解釈(思い込み)の転換による自己解決ではなく、被投性の中で与えられるものに対して、これで良いと肯定することだ。つまり「私」を肯定するのではなく「私」のローカル性を肯定するように変わったんだなあと。そこでは人類補完のように私を完全に抹消する必要はないのだけど、しかし「私」に対して絶対的な決定を与えることもしない。自らの歴史(つまり父親)を肯定し、自らを産んだ土地を肯定し(エンディングで庵野の地元の駅が出てくる)、それからマリと結ばれる。自らが自身の物語を定義するのではなく、自らが投げ込まれた偶発性の中で、結果的に自身の幸福が浮かび上がってくる情景を示唆している。 主人公のゲンドウはというと、ユイを失うことを受け入れざるを得ないんだけど、それは獲得することをも諦めないとできないことなんだよな。個人が人生を獲得の物語として捉える以上、そこには欠落や喪失が常に付きまとうものだ。でもそれは必ずしも「私」がどうこうできるものではない。不条理にも社会は暴力的に何かをあなたから奪っていくだろうし、それは何かを「獲得」するたびに現れる不安だ。そもそも、人間はすべからく若さを失っていくことも必然だ。年をとらなくなるような「エヴァの呪縛」とは、人間が何かを失い続けることへの反抗のメタファーだったように思うんだけど、どうかな。そして何かを獲得する物語を諦める態度は、獲得する主体を必要としなくなる。私たちは場に撒かれた種として、その瞬間ごとの偶発性を肯定し、受け取ることができれば、花開くのではないのだろうか。