USELESS

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信頼を得ることはコストを伴い、それが人を疲れさせる。社会で生き残るためには、どんな社会であれ、何よりも人から信頼されることが必要だ。信頼できない人間と誰が付き合うのか?誰が信頼できない人間を雇うのか?そしてあなたは生き残らないとならない。なのであなたは信頼を得る必要に駆られる。そして信頼を得るためにはあなたは自分自身を信頼できる人間だと証明しなくてはならない。あなたは話をするし、あるいは表情や身振りをとってコミュニケーションをとる。自分のやっていることや考えたことを人に伝えようとする。手段はなんだっていい。人と会うなら、かっこいい服を着るのも良い。なぜならあなたはクールだって人に証明できるから。それが面接なら、慣れなていなくてもスーツを着るのもいい。なぜならあなたは実直そうに見えるだろうから。試験なら、問題を解けば良い。なぜなら点数次第によってはあなたが充分に優秀な頭脳と知識を持ち合わせていると人に証明できるから。そうやって努力しなくてはならない。レストランに行って料理を食べられるのは、そこに毒が盛られていないと信じられるからだ。どうせ行くなら美味しい店の方がいい。どうやって選ぶ?信頼できる方を選ぶ。まだ食べてもいないのに、どうやって判断するのか?それはまあ、見た目というか雰囲気というか。目の前で存在を確かめられない商品を、どうしてオンラインで自信を持って注文できるのか?それはそのサイトを信頼するからだ。なぜ人を採用できるのかというと、その人が要求された仕事を全うできると信頼できるからだ。 多くの人間の労力のほとんどは人の信頼を得ることに費やされる。なぜならそれが社会の前提であり、社会という空間の中でのインスタンスとして人間を捉えるならば、各インスタンスは他のインスタンスに対して常にインターフェイスを提供しなくてはならない。限られた時間の中で他者を信頼できるかどうかを判断するために、人はいくつかのパブリックなキューを参照することに甘んじている。私たちは私たちについての情報を圧縮し、端的な部分を切り取って公的なストーリーとして他者に提供する。そうすることで私たちは社会における機会を獲得(維持)できる。顧客を、仕事を、友人を、恋人や家族を、あるいはフォロワーを、だ。あなたはこれらのものに対して公開し続けなくてはならない。パブリックな情報を。 もちろん人間はプライベートな情報も持っている。しかしプライベートなものに対しては想定するしかない。それもまた結局はパブリックな情報を通じてやるより他はない。そして一体どれほどの人間がプライベートな物事に対して気づくかというと、ほとんどいない。極めて密接なつながりを除けば、多くの人間はあなたを信用できない。何もしなければ、あなたは不審者であるということだ。あなたの見てくれとか、身振りとか、そうしたものは残るにせよ、ハイコンテクストな状況下では、基本的に人はあなたを信頼しない。そしてそれは多くの機会をあなたから奪うだろう。もし欲しければ、あなたは努力すればいいし、いらないのであれば、あなたは不審者に留まれば良い。 しかし人間は往々にして不審者であることに耐えられない。たいていの場合、何とかしてパブリックな場にキューを残そうとする。そしてそのことに時間と労力をかける。あるいは人生をかけて信頼に足る何者かになろうとする。もし世界にあなた一人だけだったらしなかったようなことを行う。その行為が至るところにある。 そして信頼とは基本的に予測に基づいている。それは未来を前提として、獲得の予感を与えることによって成立する。何かを獲得できる/できないというスキーマが前提としてなければ、そもそも信頼を得る必要はない。一生を引きこもって暮らせばいい。信頼する必要もないならば、そのパン屋を信頼する必要はなく、ただその毒入りのパンを食って死ねば良い。まあ、冗談として言ったまでで、どんな人間も信頼を手放すことはないだろう。 私の提案は、個人がどれほど倹約家になれるのか意識的になることで、例えばいくつかの信頼を手放すことによってあなたは獲得と非獲得のスキーマから少しばかり解放される。実際に、人間が生き延びるために必要な信頼はそれほど多くない。あなたは何もロックスターになる必要もなければ、友達を100人作る必要もないし、顧客を必要以上に抱える必要もない。そうやって浮いたコストを、あなたは何に使ったって良い。誰からも見放されるくらいにまでやったって良い。しかしその時にあなたはとてもフラットに見える。なぜならパブリックなインターフェイスを提供していないから。あなたの表面は情報ででこぼこしていない。人はあなたを見て、古典を読むような感覚を持つだろう。理解し難い沈黙。しかしその中身は空っぽではない。 人間が疲弊する理由は、信頼を得ることが時として重労働になるからだ。それがどれほど重荷になるのかは人によると思う。生まれや育ちとかで。どれほど社会が多様性を志したとしても、偏見は残るし、特権的な階層は易々と社会における信頼を獲得する。イージーなゲームだ。しかし彼にしたところで、ゲームに参加していることに変わりはない。どのゲームをとり、どのゲームを唾棄するのかは常にあなたの選択としてある。獲得と非獲得のスキーマは、資本のロジックを受け入れることと同義でもあるし、それは往々にして絶望的な出来レースになる。あなたは時として不審者に留まるべきかもしれないし、少なくとも私はそれを薦める。もしあなたの定義する豊かさが資本と結びついていないのなら、人から見放されることはそんなに悪いことではない。