USELESS

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物語とは動機の関数であると思っていて、例えば小説を読んだときに最初の30%くらい読んだ後に急に面白くなってきて最後までガーっと読んじゃったみたいなことがあるじゃないですか、あれはキャラクターの動機、行動原理がある程度わかってきて、それを追っかけるのが面白くなるってのが一つ理由としてあると思う。 なぜこんな話をしているのかというとZZガンダム見てて最初は全然面白くねーなって思ったんだけど途中からあーこれは人の動機についての物語なんかなと解釈が生まれてきて。これはファーストガンダムのときにも思ったことだけど基本的にガンダムの主人公ってのは非軍人なんですよね。で、じゃあなんで仕事でもないのにやるんだよって話になる。でも彼らは否応なく戦いに巻き込まれていくってことがミソで、行動がまず最初にあって、その後に動機が問われる。敵対勢力のキャラクターは比較的に野望を持っていて、故に疑問を持たない。疑問を持たないことは暴力をも許可する。なぜならそこに明確な理由があるからだ。人は理由がなければ殺しをしない。大抵は心が痛むだろうし、心が痛まない人間だろうと後処理がめんどくさいとか牢獄に入るのダルいとかそういうROI判定が割り込んできて殺さない方が得だと結論づく。敵方のハマーン様はザビ家再興そしてジオンの宇宙征服を目論む人なんだけど結局はか弱い女みたいな印象に落ち着くのはやはりその大義の中に個人的な動機が隠されているのが見えるからだ。 劇中でも地球連邦のお偉いさんと現場の人間との軋轢が見えるのだけど、大局的に考えて正しいことが、個人的にリスク取りたくないとか恥かきたくないとか日和見主義だとかによってROIが歪められてしまい、判断を最終的に左右している。実際こういうのは大企業の人間と仕事で関わると頻繁に感じる。なぜならみんな自分がかわいいからなんですよね。自分の頭で考えて判断する以上、自分を守ることが最優先にバイアスかかっているみたいなことになるのは仕方ない。 これは主人公ジュドーとアーガマのクルーにしても例外ではなく、ジュドーのもっぱらの動機は妹を助けるということが物語の途中まであるわけなんだけど、その妹が死亡してじゃあ何のために辛い思いまでして命かけて戦いに参加するんだということになる。それが後半のエピソードの通底にあるテーマで、最終的な解決としてはグレミートトと対峙したときに発せられるセリフに現れるように、自らのエゴイスティックな(そしてあたかも崇高であるような大義にカモフラージュされた)動機が許す暴力が地球や宇宙の命運をどうこうするのを、こっちも個人的に許せねーよ死ねということが戦う動機になる。グレミーはカッコつけなんですよね。自らの幼さを認めたくないが故に、あたかも高尚な理由づけによって、自分のコンプレックスを隠そうとしている。これは宇宙のためでもなく人類のためでもなく「自分のため」で、だからこそルールカに惑わされる(根源にあるのは自分の気持ちよさだから)。で最後にルールカに射殺されるのが縁起だよね。 結局この登場人物たちはどいつもこいつも自分の個人的な動機の範疇を超えることはなく、そしてそこに人類が人として生きることの限界がある。なぜなら「私」という主語そのものが一連の物語を前提とするものであり、物語は個人的な動機づけを前提としているから。そしてこうした物語がニュータイプとかいう人の存在をビンビンに感じる人の間で起こってるんだから尚更その絶望感が浮き彫りになる。思想やイデオロギーが個人の範疇をでないうちは、結局は数として多い個人の集合を対象とするしかなく、つまりは妥協案に留まらざるを得ず、人類全体のための普遍的な解決は出ない、つまりはニュータイプは宇宙戦争を解決しない。次はシャアの逆襲を見ようと思うけどこれは多分シャアが絶望すると見た。