USELESS

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インターフェイスを操作することによって生じる根源的なタイプの快感を人間は持っている。少なくとも私は。例えばキーボードを叩くことはそれ自体が本質的に快感だと思う。私キーボードは叩き心地がとても良いのだけど、それはすごく気持ちいいことなんだ。なぜなら、キーを叩くことによってインタラクションが生じるから。キーを叩く、画面に文字が現れてくる。その繰り返しだけでもこんなに気持ちいいことはないなと思う。アクションとフィードバックがスムーズであればあるほど、気持ちいいと思う。逆に画面との間に0.1秒でもラグがあると、私はイラついてしまう、正直に言って。その意味において人間の身体というのはよくできたインターフェイスで、最速でフィードバックを返してくるから、それはやはり本質的に楽しいことなんだ。外に行って公園のベンチに座って子供を観察しているとわかることだが、子供たちは80%くらいの確率で走り回っている。単純に楽しいからなんだろうね。スポーツにしたって、身体を動かすことは、本源的に楽しいことで、それはまあ試合に勝つとか憧れのオリンピック選手になりたいとかいうオブジェクトはあるけれど、身体を動かしてボールを蹴るとかラケットを振るとかそういう根本的なゲームプレイにおいて楽しいことがやはり前提になっている。残念ながら私の場合はスポーツがからっきしダメだったのだけど、代わりにギターに夢中になった。最初は何もミュージシャンになりたいとか音楽を作ってみたいとかではなく、単純に触ってみたら何これスゲー音が出んじゃんって感じでその弦を弾くというアクションと音が出るというフィードバックを提供するギターというインターフェイスは素晴らしいと思った。 最近なんか友達に貰ったWiiのゲームをプレイしてて、ハマった。なぜ人間はビデオゲームに夢中になるのかというと、(様々な理由があるにせよ)1つにはゲームコントローラというインターフェイスを操作して画面上の世界に介入することができるからなんですよね。基本的にはアクションとフィードバックの繰り返しで、それはゲームの内容がなんであれ、まず根本的に達成されていなくてはならないことで、それがないゲームは音の鳴らないギターと同じだ。思えば私たちが子供の頃に発売されたDSやWiiは新たなインターフェイスの発明だった。なぜWiiがあれほど成功したのか、それは身体というインターフェイスを通じたジェネリックな快感に訴えたからであると思う。プレステのコントローラのボタンを正しく押すことは、ゲーマーにこそ簡単に見えても、実は多大な学習を要する。代わりに、Wiiコントローラを持って腕を動かすことは、ジジババでも子供でも誰でも直感的にできる。人がすでに知っている動作のセットに少しの学習が加わるだけで、魔法が画面で起こる。これほどの報酬はないよね。 そしてもう一つゲームにハマる理由を挙げると、今言ったけど学習というプロセスで、人は(個人差はあるけど)根源的に学ぶことが気持ちいい生き物だ。学習は、インターフェイスを通じたフィードバックを通じて行われる。画面で単純にキャラクターを動かすことは簡単かもしれないが、敵の攻撃を避けながら攻撃する、となると、成否が分かれる訳で、そこにフィードバックがある。これはうまく行った、これはうまく行かなかった、その繰り返しで人は学習していく。そして上達していく。それが気持ちいい。例えば風来のシレンのようなゲームに100時間も没頭できるのは、100時間経っても尚、学ぶことがあるから。ゲームの性質上、ランダムなシチュエーションがプレイするたびに生まれる故に、その時々で新しい発見、つまりフィードバックがある。考えてみてほしい。人がゲームを辞める瞬間は、あーもう飽きたっていう瞬間ですよね。それはもはや新しい発見や学習の機会がないことを意味する。クソゲーとは、最初から学習する余地のないゲームのこと。逆に、学習の余地があるほど、人はゲームにハマる。Wiiのコントローラはそういう意味で(単純なボタンのインプットではない点で)腕を動かすというシンプルな動作ながら何百回もの試行錯誤を促すし、そうした意味で革新的なインターフェイスだったと思う。最近のSwitchはよく知らないけどWiiほど革新的ではない。 ところでプログラマの最大の仕事はユーザに対してインターフェイスを提供することだ。それは単純にコードを書くことではない。つまり、ユーザの意図を実行するために必要な処理をインターフェイスの裏で処理するプログラムを書き、最後にその実行ボタンだけを提供すること。あらゆるソフトウェアやプログラムは、いかにユーザの意図とその実行とがスムーズに結びつくかによって評価される。例えばAmazonが提供するインターフェイスは、購買や支払いやお店への連絡、配送というプロセスをインターフェイスの裏に押しやり、ただ一つの購入ボタンだけを提供する。それが結果として成功した。成功するインターフェイスとは、人が意図を持った瞬間から、その実行までにかかるコストが最小限のものだ。例えば部屋のライトのボタンが、3秒押さなくてはいけないものだったとしたら、気分は良くない。あるいは、3つのボタンを順に押さないといけないようなものなら、とてもダルい。1つのボタンを押して即座にフィードバックが返ってくるからストレスなく使えるのだ。インターフェイス上における”ボタン”には漏れがなく、ダブりがなく、意図を正確にスムーズに実行できなくてはならない。それは気持ちいいことだから。 ソフトウェアや機械を機能的なインターフェイスとするならば、芸術は美学的なインターフェイスである。インターフェイスがクリティカルに整理されている際に、それは時に美とのインターフェイスになりうる。例えばモナリザのように。モナリザはおそらく歴史上作られた最も美しいインターフェイスの1つである。そしてこのインターフェイスは見るものに意図を与える。ユーザは彼女の目を覗き込み、口元の微笑を見やり、背景を見てとり、そして感嘆する。カントの言葉を借りると、このインターフェイスを通じて崇高にアクセスしている。これはルネサンス以降の美術の前提だと思うが、人が自らの目線で世界に介入できると知ったときから、美術は画面の背後にある世界に対するインターフェイスとしての色を強めていった。20世紀になると、人々はマークロスコの色彩の海を通じて自らの混沌と静寂とにアクセスし、あるいはマルセルデュシャンの「泉」は、このインターフェイス性の最たるものだと思う。それは表面をなぞるだけでは評価され得ない。それは人がそのインターフェイスを通じて何かにアクセスし、フィードバックを得ることによって初めて評価され得る。 私がなぜここ最近ビデオゲームに着目しているかというと、音楽やシナリオ、美術といったものを孕み得る総合芸術でありつつ、かつ本質的にプレイヤーに対してアクションを要求するから。インターフェイスは人のアクションを前提とする。それは受動的ではなく、積極的なものでなくてはならない。プレイヤーは操作をすることを要求される。意図的に見ることを、思考することを要求される。それは人間としての本質的な営みであり、究極的には冒険そのものだ。冒険は世界を想定する。それがどんな世界であれ、そのようなインターフェイスはその世界に対する仮想的な入り口となる。これからの時代において、インターフェイスを提供できない芸術やエンタメは時代遅れと言わざるを得ず、じきにAIが代わりに作るようになるだろう。しかし人間の冒険は人間だけが知り得るものだ。例えていうなら、100時間”プレイ”できる音楽や、100時間プレイできる映画、100時間プレイできる小説があるとすれば、それはおそらく限られた古典や名作と呼ばれ得る作品にだけ見出せるもので、それは私たちをして冒険へと誘う扉であり、ビデオゲーム的なインターフェイスなのだと思う。 私は優れたインターフェイスを作りたい。それを通じて人がそれぞれに世界とインタラクトできるような種類のものを。そしてそのヒントは優れたビデオゲームというインターフェイスにおいて端的に学ぶことができるし、そこが分かる人にとって、作品は自己表現ではない。それは扉である。それはプレイヤーに提供されたコントローラであり、人々に遊ばれることを待っている。