USELESS

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(followed by translated text) 今更ながらダークソウルをやった。2ヶ月くらいかけてクリアした。難しかった。長かった。でもなんか古典の長編小説読み切ったような満足感というか達成感があり、気持ちよかった。奇妙な冒険だった。何度も何度も死んで、そして挑戦し直し、また死ぬ。18回目の挑戦でようやく勝てるくらいのバランスでこれは心が折れると思った。でも諦めなかった。やってる間は本当にもう、辛いですよ。時間かけてたどり着いた結果が水泡に帰す絶望感は計り知れない。しかしその失敗を中心に据えたプレイループには言葉にできない美的な満足感があった。 考えてみると(任天堂の出すようなカジュアルゲーム-いわゆる岩田聡の言うところのノンゲームを除けば)、ビデオゲームは、成功よりは失敗を経験するメディアだ。ダークソウルを例にあげずとも、ファミコンでやるスーパーマリオにしたって、一度死んでしまえばそれまでの労力が水泡に帰す、シーシュポスの苦行にも近い悲劇ですらある。私たちはビデオゲームを通じて失敗を経験したいのだろうか。私たちは根源的に失敗を渇望しているのだろうか。いや、できることなら失敗は避けたい。失敗は苦痛だ。何をするにしたって、それが上手くいってほしいと思う。しかしビデオゲームとは極めて明確なゴールを設定するために、失敗が(そしてゲームの難易度によっては失敗の連続が)つきまとう。何度も失敗するのは精神的につらい。しかし、私たちはそんなものを好き好んでやっている。ゲームだけではない。私たちは往々にして精神的な苦痛を伴う悲劇的なメディアを求める。むしろ、私たちはキャラクターに葛藤のない映画や小説、漫画に面白みを感じない。  私たちは苦痛を避けたいにも関わらず、メディア経験において往々にして苦痛を伴う悲劇性を求める。なぜなのか。いくつかの説明が考えられるだろうけれど、ヤスパーユールの本を紐解くとこう書いてあった:1)私たちは悲劇における苦痛を間に受けてはいない。2)私たちはいつでも(本を閉じるなどして)苦痛を免れる。3)苦痛はやがて物語において(キャラクターの目的の成功などによって)贖われる。 ユールはさらにこう書き加えている。我々は2つのシステムによって悲劇的メディアを体験している。1つには美的な欲望によって、そしてもう一つにはフィジカルな反応(すなわち苦痛)として。つまり、そのようにして例えば「この映画が見てみたい」と「こんな映画はつらすぎて見たくない」が共存している。 では、そもそもなぜ悲劇性を伴う作品を(そして失敗を頻繁に経験するゲームを)私たちは往々にして求めるのか。私はそこに対して実存主義的な説明を加えてみる。私たちは実際のところ、失敗に飢えているのだと思う。なぜなら私たちは、不条理に対する反抗において生を賦活されるから。シーシュポスの神話でカミュが語ったように、人生とは、どう足掻こうが(究極的には死という)不条理を突きつけられる茶番かもしれないが、その避けられない失敗に対する反抗こそが生に意味合いを与えるし、人間は、死という失敗に抗う挑戦において、人間性を自覚する。 しかし、実際のところ、私たちは何において失敗しているのかは自覚していない。明確な失敗を感じるようなことは普段の生活においてそう多くはない。自分が、着実に1日ごとに死んでいく、すなわち老いていくというその事実だけは、時々思い出す程度で。死を究極の失敗として位置づけるならば、私たちの生き方に対するフィードバックはあまりにも曖昧で、ときおり、私たちはその限られた時間を無駄にしたことに対して憤慨するが、それにしても生きることについてはひとまずまだ成功しているのだから、まあいいじゃないかと、なあなあになってしまう。黒澤明の「生きる」のように、明確なメメントモリ瞬間がない限り、人間は基本的に怠惰で、死という失敗の不在が、結果的に人生そのものを往々にして無気力にしてしまう。そこには何が欠けているのかというと、究極的には死の感覚だが、一般的には失敗の感覚が欠けている。何か失敗するかもしれないこと、うまくやれるのかどうかわからないことに挑戦し続けることにおいて、人間はその反抗において実存を得る。だが、往々にして、人間は挑戦を行わない安寧の中に安住してしまう。すなわち、私たちは個別に実存者として失敗の感覚に飢えている。そしてその飢えは満たされることはない。だからこそ悲劇は(人生の悲劇性を喚起し生を賦活する意味において)鑑賞に値するし、私たちはキャラクターに葛藤のない映画や漫画に面白みを感じない。むしろ、私たちはゴッドファーザーのようなドラマを食い入るように鑑賞し、エヴァにおける碇シンジに共鳴し、岡崎京子の漫画の退廃性に美を見出す。おおかたのメディアの美的側面には、多かれ少なかれ、悲劇性がある。 そのような意味合いにおいて、ビデオゲームもまた悲劇的メディアの側面を持っている。そのメディア体験は、インタラクティブな悲劇だとも言えると思う。ビデオゲームをプレイすれば、往々にして成功よりも多くの失敗を経験する。時には何時間、何十時間とプレイし、不毛とも呼べるような失敗を繰り返し苦痛を耐え忍ぶことは、つらい。失敗するごとに、またやり直す。そこにははシーシュポスの苦行のような不条理がある。そのような失敗の連続は映画のように劇的ではなくとも、より頻繁かつ個人的であり、プレイヤーの自尊心を傷つける。 その悲劇性を最大にまで高めたものはダークソウルや不思議のダンジョンのようなゲームに見てとれると思う。そしてそれは映画や何かのように、画面の向こう側でただ起こるのではなく、インタラクティブなメディアとして、プレイヤー自身にその責任を突きつける。ビデオゲームは究極的にはインタラクティブな悲劇的メディアであり、プレイによって自らに降りかかる悲劇的な帰結を身をもって自身の責任として引き受ける異様な体験ですらある。 ではなぜ、人はそのような悲劇性にも関わらずゲームをプレイし続けるのか。なぜ、そのような不条理に対して反抗し続けるのか。一つには、その反抗のプロセス自体に美的価値を認めるからかもしれない。失敗の連続にヒロイズムはなくとも、その一つ一つの失敗の責任を認める限りにおいて、プレイヤーは反抗者としての実存を得る。しかし、プレイヤーは永遠に失敗し続けるわけではない。実際には、多くのビデオゲームは完全な理不尽としてはデザインされていない。プレイヤーが失敗の責任を引き受け、反省し、学習し、挑戦し直す限りにおいて、やがては成功を体験できるようにデザインされている。失敗し、失敗し、やがて一縷の成功を掴む瞬間に、プレイヤーはカタルシスを得る。そうして悲劇はやがて贖われる。ユールの言うところの「感情のギャンブル」が結実する瞬間だ。 不条理=ゲーム内の制約(ルール)の中であらがい、やがて勝利を得る。私たちはその一連の経験に一種の人間としての充足を見出す。それは、別の言葉で言いかえれば、学ぶためにプレイしているのだとも言える。失敗を繰り返すことは、学習を繰り返すことでもあるから。私たちは知ると知らずとに関わらず、ビデオゲームの中において、試行し、失敗し、学習するそのプロセスを楽しんでいる。その意味において、ゲームにおける成功は、プレイヤーの学習に対するフィードバックでしかない。そして、プレイヤーの学習プロセスにおける成功がゲーム内の現実(ユールの言うところのハーフリアル)を成功に導くとも限らない。例えばホラーゲーム「サイレン」のキャッチコピーは「どうあがいても、絶望」だったと思うけど、高難度のステージ群をクリアした先にあるのは更なる不条理の連続でしかない。しかし、私を含めて多くの人がこの悲劇的ゲームを愛している。 もちろん、そのようにしてビデオゲームが悲劇的インタラクティブメディアとして成立するためには二つの条件がある。第一に、それは失敗と成功を提示しなくてはならない。ビデオゲームは明示的にあるいは暗黙的に、ルールを通じてそれらの境目を示す必要がある。失敗は失敗としてフィードバックをプレイヤーに与えなくてはならない。そうでなくては、失敗に対して抗う感覚も薄れてしまう。第二に、プレイヤーは提示された失敗と成功に対して責任を負わなくてはならない。失敗であれ、成功であれ、それはプレイヤーによるアクションの帰結でなくてはならない。そうでなくては、ゲームにおける失敗の不条理性も、それに対する反抗性も、薄れてしまう。 当然ながら、全ての映画や小説が悲劇ではないように、以上の条件を満たさない、あるいは満たさないように見えるゲームもある。例えば、牧場物語やどうぶつの森には明確な失敗はないかもしれない。それでも、ゲーム内においてプレイヤーは何か目標に対して行動し、時間を投資する限りにおいてはその過剰な損失は失敗として位置付けることはできるかもしれない。プレイヤー自身が成功を定義する形のゲームだと捉えれば、自ずと失敗も現れる。しかし、それは調整可能なものであるからして、悲劇性は薄いだろう(自分ではあまりプレイしないタイプのゲームなので分からない)。 そろそろダークソウルに話を戻そう。そう、私はダークソウルをクリアした。多くの苦難にもかかわらず。ダークソウルはビデオゲームのインタラクティブな悲劇性において、その究極をいくもののように思えた。理不尽とも思えるような失敗の連続、そしてそれに伴う慈悲のないソウルのロストは賽の河原で石を積むような苦行のようだった。無慈悲に時間も食うし。しかし、失敗を耐え忍び、反省し、挑戦し続け、一縷の成功を掴み取っていくプロセスには言いようのない満足感があった。 人間性というステータスがあって、それはもちろん死んだらなくなるんだけど、私には失敗するごとに人間性が高まるような感覚があった。このゲームにおいては失敗こそが人間性なのではないかと思っていた。人間性を補充できるアイテムもあって、それが他の冒険者の死体とかネズミ(に喰われた人)とかから入手可能なんだけど、それはすなわちかつての誰かの冒険の失敗の残骸なんですよね。なんかそれが象徴的だなと思って。あらがい、挑戦し、それでもなお能わないことにこそ全能な神性との対比としての人間性が認められのではないかと思って。それで長々と書いた。 I finally played Dark Souls, which took me about two months to complete. It wasn't easy. It was long. But I felt a sense of satisfaction and accomplishment, like I had finished reading a classic long novel, and it felt good. It was a strange adventure. I died over and over again, tried again and tried again, and died again. It was so balanced that I could finally win on the 18th try, and I thought it would break my heart. But I didn't give up. Indeed, it's hard. The sense of despair that the result you have spent hours to reach has gone down the drain is immeasurable. But there was an aesthetic satisfaction in the play loop centred on that failure that I can't describe. When you think about it (except casual games like those put out by Nintendo - so-called non-games, as Satoru Iwata calls them), video games are a medium where you experience more failure than success. Even if we don't take Dark Souls as an example, or Super Mario on the NES, once you die, all your previous efforts come to nothing, and it's even a tragedy, almost like the agony of the Sisyphus. Do we want to experience failure through video games? Do we fundamentally crave failure? No, we want to avoid failure if possible. Failure is painful. Whatever we do, we want it to work. But video games are about setting clear goals. Thus, clear failures follow, too. It is mentally hard to fail again and again. But we like to do such things - video games. It is not only games. We often seek out tragic media with psychological pain. We would instead find films, novels, and comic books tedious when the characters don't show any pain.  We often seek painful tragedy in our media experiences despite our desire to avoid pain. Why is this? There are several possible explanations. According to a book by Jasper Juul, it explains like so: 1) we actually do not take suffering seriously as we do in real; 2) we can always avoid suffering (e.g. by closing the book); 3) suffering is eventually redeemed in the story (e.g. by the success of the character's goals); Yuul adds: We experience tragic media through two systems: one through aesthetic desire and the other as a physical response. That's how we have two ambivalent feelings; ‘I want to watch this film’ and ‘I can't bear watching such a painful film’. So why do we often seek out films with tragedy (and games that frequently experience failure) in the first place? I offer an existentialist explanation for this. We crave the sense of failure and pain because we are enlivened in our rebellion against the absurd. As Camus said in The Myth of Sisyphus, life may be a travesty in which we are confronted with absurdity (and ultimately death) no matter what we do. Still, it is the rebellion against this inevitable failure that gives life meaning and makes us aware of our humanity in the challenge against the failure that is death. In reality, however, we are oblivious to what we ultimately fail at. Things in everyday life don't give us a clear sense of failure. Only the fact that you are steadily dying day by day is something that we remember from time to time. If death was the ultimate failure, the feedback on our way of life is so ambiguous. We sometimes resent that we have wasted our limited time, but we still survive anyway for the time being, so we just let the feeling fade away. Unless there is a vivid Memento Mori moment, as in Akira Kurosawa's Ikiru, people are lazy. The absence of the failure of death often results in a lethargy towards life itself. What is missing there is ultimately a sense of death but generally a sense of failure. In continuing to try something that may or may not fail, something that one does not know whether one can do well, human beings gain existential entity in their defiance. But often, human beings rest in the peace of not challenging themselves. In other words, we are often hungry for a sense of existence, which is failures. And that hunger is never actually satisfied until you die. That is why tragedy deserves to be appreciated (in the sense that it evokes the tragic nature of life and invigorates life), and we often find films and mangas boring if the characters don't show any pain. Instead, we devour dramas like The Godfather, resonate with Shinji Ikari in Eva and find beauty in the decadence of Kyoko Okazaki's manga. The aesthetic aspect of most media is, to a greater or lesser extent, tragic. In that sense, video games also have aspects of tragic media. You could say that the media experience of video games is an interactive tragedy. When you play video games, you often experience more failures than successes. It is painful to play a video game for hours, sometimes dozens of hours, and endure the pain of repeated failure, which can be almost futile. With each failure, you have to start again. There is an absurdity to it, like the agony of the Sisyphus. Such failure sequences may not be as dramatic as in the film, but they are more frequent and personal, which damages the player's self-esteem. That tragic character can be seen in games like Dark Souls and Mystery Dungeon. And it doesn't just happen on the other side of the screen, like in a film or something, but as an interactive media, it puts the responsibility on the players themselves. Video games are ultimately interactive tragic media, even a bizarre experience in which you take responsibility for the tragic consequences that befall you as a result of your play. Why, then, do people continue to play games despite such agony? Why do they continue to rebel against such absurdity? One reason may be that they recognise the aesthetic value in the process of rebellion itself. Even if there is no heroism in the succession of failures, the player gains existence as a rebel insofar as he accepts responsibility for each failure. However, players do not fail forever. In fact, many video games are not designed as completely unreasonable. They are designed so that players can eventually experience success as long as they accept responsibility for their failures, reflect, learn and try again. Players experience catharsis in the moments when they find a glimmer of success after millions of failures. In this way, tragedy is eventually redeemed. This is the moment when what Yuul calls ‘emotional gambling’ rewards you. The player struggles within the constraints (rules) of the absurdity of the game and eventually achieves victory. We find a kind of human fulfilment in this series of experiences. In other words, we play to learn. Because failing repeatedly is also learning repeatedly. Whether we know it or not, we enjoy the process of trying, failing and learning in video games. In this sense, success in a game is only feedback to the player's learning. It is also worth noting that success in the player's learning process does not necessarily lead to success in the in-game reality (or Half-Real, according to Yuul). For example, in the horror game Siren, you only experience further absurdity after beating a bunch of extremely difficult stages, as the copy of the game warns: ‘No matter how you try, it's only despair (どうあがいても、絶望)’. However, many people, including myself, love this tragic game. As you suspected, there are two conditions for a videogame to be a tragic interactive media. First, it must present failure and success. The videogame must explicitly or implicitly mark those boundaries through its rules. Failures must be given feedback to the player as failures. Otherwise, the sense of resistance to failure would diminish. Second, players must take responsibility for the failures and successes presented to them. Failure or success must be a consequence of the player's actions. Otherwise, there would be less sense of the absurdity of failure and the defiance of it in the game. Of course, just as not all films and novels are tragedies, some games do not or appear not to, fulfil the above conditions. For example, Harvest Moon, Animal Crossing, or Stardew Valley may have no evident failures. In those games, players might fail at their own goals if the player acts on some goal and invests time in the game. However, it would be less tragic, as you can adjust your goals (I don't know, it's the type of game I don't play much myself). Anyway, let's get back to Dark Souls. Yes, I beat Dark Souls despite many hardships. Dark Souls seemed to be the ultimate in interactive tragedy in video games. I lost all the Souls I got every time I failed, which was a painful experience. It was like piling up stones on the Sai no Kawara. It also mercilessly ate up my time. But there was an inexpressible satisfaction in the process of enduring the failures, reflecting on them, continuing to try, and grasping a glimmer of success. In the game, there is a status called Humanity, which (unsurprisingly) disappears when you die, but there was a sense that my Humanity grew with each failure. I thought that failure is humanity during the play. Some items can replenish humanity, which is available from the corpses of other adventurers or rats (that have eaten people), which suggests that Humanity is the remnant of someone's failure in their adventure. I found it symbolic. It is the fact that we struggle, try and still fail where we can recognise our humanity as a contrast to the omnipotent divinity. I thought about that, so I wrote at length.