USELESS

ARCHIVE

USELESS

テクノロジーは芸術ではない。アートぶっているテクノロジーの嫌いなところは、それが人間を時間から、死から解放しないにも関わらず、それが可能にする差分によってその根本的な不能を覆い隠してしまうところだ。その不能にこそ人間(すなわちアートがやってき、また向かっていく先)が認められるにも関わらず。美しさとは美しさの失敗にこそ認められる。ミロのヴィーナスのように。それは完璧性ではない。失敗は機会であり、すなわち時間である。それぞれの機会喪失にこそ私たちが帰っていく時間の海があり、機会の潤沢は美を可能にするように見せかけて、その経験には疎外感しか認められないだろう。計算機械が可能にする機会の潤沢は、よってそのアウトプットそれ自体に実存的意義を付与しない。それがむしろ浮き彫りにするのは、我々に残された機会の不足であり、テクノロジーが可能にする美の形があるとすれば、我々を機会で圧倒することによって、我々自身としてはそのすべてを経験するに能わないということを意識するためのインターフェイスを提供することにあると思う。テクノロジーが提供する機会によって生じる成功は、あまりにもありふれていて、それ自体としては意味がなく、しかしそれを過剰にすることによってこちら側にある不足を際立たせることに道があると思った。素面になってきたので寝る。
(followed by translated text) 今更ながらダークソウルをやった。2ヶ月くらいかけてクリアした。難しかった。長かった。でもなんか古典の長編小説読み切ったような満足感というか達成感があり、気持ちよかった。奇妙な冒険だった。何度も何度も死んで、そして挑戦し直し、また死ぬ。18回目の挑戦でようやく勝てるくらいのバランスでこれは心が折れると思った。でも諦めなかった。やってる間は本当にもう、辛いですよ。時間かけてたどり着いた結果が水泡に帰す絶望感は計り知れない。しかしその失敗を中心に据えたプレイループには言葉にできない美的な満足感があった。 考えてみると(任天堂の出すようなカジュアルゲーム-いわゆる岩田聡の言うところのノンゲームを除けば)、ビデオゲームは、成功よりは失敗を経験するメディアだ。ダークソウルを例にあげずとも、ファミコンでやるスーパーマリオにしたって、一度死んでしまえばそれまでの労力が水泡に帰す、シーシュポスの苦行にも近い悲劇ですらある。私たちはビデオゲームを通じて失敗を経験したいのだろうか。私たちは根源的に失敗を渇望しているのだろうか。いや、できることなら失敗は避けたい。失敗は苦痛だ。何をするにしたって、それが上手くいってほしいと思う。しかしビデオゲームとは極めて明確なゴールを設定するために、失敗が(そしてゲームの難易度によっては失敗の連続が)つきまとう。何度も失敗するのは精神的につらい。しかし、私たちはそんなものを好き好んでやっている。ゲームだけではない。私たちは往々にして精神的な苦痛を伴う悲劇的なメディアを求める。むしろ、私たちはキャラクターに葛藤のない映画や小説、漫画に面白みを感じない。  私たちは苦痛を避けたいにも関わらず、メディア経験において往々にして苦痛を伴う悲劇性を求める。なぜなのか。いくつかの説明が考えられるだろうけれど、ヤスパーユールの本を紐解くとこう書いてあった:1)私たちは悲劇における苦痛を間に受けてはいない。2)私たちはいつでも(本を閉じるなどして)苦痛を免れる。3)苦痛はやがて物語において(キャラクターの目的の成功などによって)贖われる。 ユールはさらにこう書き加えている。我々は2つのシステムによって悲劇的メディアを体験している。1つには美的な欲望によって、そしてもう一つにはフィジカルな反応(すなわち苦痛)として。つまり、そのようにして例えば「この映画が見てみたい」と「こんな映画はつらすぎて見たくない」が共存している。 では、そもそもなぜ悲劇性を伴う作品を(そして失敗を頻繁に経験するゲームを)私たちは往々にして求めるのか。私はそこに対して実存主義的な説明を加えてみる。私たちは実際のところ、失敗に飢えているのだと思う。なぜなら私たちは、不条理に対する反抗において生を賦活されるから。シーシュポスの神話でカミュが語ったように、人生とは、どう足掻こうが(究極的には死という)不条理を突きつけられる茶番かもしれないが、その避けられない失敗に対する反抗こそが生に意味合いを与えるし、人間は、死という失敗に抗う挑戦において、人間性を自覚する。 しかし、実際のところ、私たちは何において失敗しているのかは自覚していない。明確な失敗を感じるようなことは普段の生活においてそう多くはない。自分が、着実に1日ごとに死んでいく、すなわち老いていくというその事実だけは、時々思い出す程度で。死を究極の失敗として位置づけるならば、私たちの生き方に対するフィードバックはあまりにも曖昧で、ときおり、私たちはその限られた時間を無駄にしたことに対して憤慨するが、それにしても生きることについてはひとまずまだ成功しているのだから、まあいいじゃないかと、なあなあになってしまう。黒澤明の「生きる」のように、明確なメメントモリ瞬間がない限り、人間は基本的に怠惰で、死という失敗の不在が、結果的に人生そのものを往々にして無気力にしてしまう。そこには何が欠けているのかというと、究極的には死の感覚だが、一般的には失敗の感覚が欠けている。何か失敗するかもしれないこと、うまくやれるのかどうかわからないことに挑戦し続けることにおいて、人間はその反抗において実存を得る。だが、往々にして、人間は挑戦を行わない安寧の中に安住してしまう。すなわち、私たちは個別に実存者として失敗の感覚に飢えている。そしてその飢えは満たされることはない。だからこそ悲劇は(人生の悲劇性を喚起し生を賦活する意味において)鑑賞に値するし、私たちはキャラクターに葛藤のない映画や漫画に面白みを感じない。むしろ、私たちはゴッドファーザーのようなドラマを食い入るように鑑賞し、エヴァにおける碇シンジに共鳴し、岡崎京子の漫画の退廃性に美を見出す。おおかたのメディアの美的側面には、多かれ少なかれ、悲劇性がある。 そのような意味合いにおいて、ビデオゲームもまた悲劇的メディアの側面を持っている。そのメディア体験は、インタラクティブな悲劇だとも言えると思う。ビデオゲームをプレイすれば、往々にして成功よりも多くの失敗を経験する。時には何時間、何十時間とプレイし、不毛とも呼べるような失敗を繰り返し苦痛を耐え忍ぶことは、つらい。失敗するごとに、またやり直す。そこにははシーシュポスの苦行のような不条理がある。そのような失敗の連続は映画のように劇的ではなくとも、より頻繁かつ個人的であり、プレイヤーの自尊心を傷つける。 その悲劇性を最大にまで高めたものはダークソウルや不思議のダンジョンのようなゲームに見てとれると思う。そしてそれは映画や何かのように、画面の向こう側でただ起こるのではなく、インタラクティブなメディアとして、プレイヤー自身にその責任を突きつける。ビデオゲームは究極的にはインタラクティブな悲劇的メディアであり、プレイによって自らに降りかかる悲劇的な帰結を身をもって自身の責任として引き受ける異様な体験ですらある。 ではなぜ、人はそのような悲劇性にも関わらずゲームをプレイし続けるのか。なぜ、そのような不条理に対して反抗し続けるのか。一つには、その反抗のプロセス自体に美的価値を認めるからかもしれない。失敗の連続にヒロイズムはなくとも、その一つ一つの失敗の責任を認める限りにおいて、プレイヤーは反抗者としての実存を得る。しかし、プレイヤーは永遠に失敗し続けるわけではない。実際には、多くのビデオゲームは完全な理不尽としてはデザインされていない。プレイヤーが失敗の責任を引き受け、反省し、学習し、挑戦し直す限りにおいて、やがては成功を体験できるようにデザインされている。失敗し、失敗し、やがて一縷の成功を掴む瞬間に、プレイヤーはカタルシスを得る。そうして悲劇はやがて贖われる。ユールの言うところの「感情のギャンブル」が結実する瞬間だ。 不条理=ゲーム内の制約(ルール)の中であらがい、やがて勝利を得る。私たちはその一連の経験に一種の人間としての充足を見出す。それは、別の言葉で言いかえれば、学ぶためにプレイしているのだとも言える。失敗を繰り返すことは、学習を繰り返すことでもあるから。私たちは知ると知らずとに関わらず、ビデオゲームの中において、試行し、失敗し、学習するそのプロセスを楽しんでいる。その意味において、ゲームにおける成功は、プレイヤーの学習に対するフィードバックでしかない。そして、プレイヤーの学習プロセスにおける成功がゲーム内の現実(ユールの言うところのハーフリアル)を成功に導くとも限らない。例えばホラーゲーム「サイレン」のキャッチコピーは「どうあがいても、絶望」だったと思うけど、高難度のステージ群をクリアした先にあるのは更なる不条理の連続でしかない。しかし、私を含めて多くの人がこの悲劇的ゲームを愛している。 もちろん、そのようにしてビデオゲームが悲劇的インタラクティブメディアとして成立するためには二つの条件がある。第一に、それは失敗と成功を提示しなくてはならない。ビデオゲームは明示的にあるいは暗黙的に、ルールを通じてそれらの境目を示す必要がある。失敗は失敗としてフィードバックをプレイヤーに与えなくてはならない。そうでなくては、失敗に対して抗う感覚も薄れてしまう。第二に、プレイヤーは提示された失敗と成功に対して責任を負わなくてはならない。失敗であれ、成功であれ、それはプレイヤーによるアクションの帰結でなくてはならない。そうでなくては、ゲームにおける失敗の不条理性も、それに対する反抗性も、薄れてしまう。 当然ながら、全ての映画や小説が悲劇ではないように、以上の条件を満たさない、あるいは満たさないように見えるゲームもある。例えば、牧場物語やどうぶつの森には明確な失敗はないかもしれない。それでも、ゲーム内においてプレイヤーは何か目標に対して行動し、時間を投資する限りにおいてはその過剰な損失は失敗として位置付けることはできるかもしれない。プレイヤー自身が成功を定義する形のゲームだと捉えれば、自ずと失敗も現れる。しかし、それは調整可能なものであるからして、悲劇性は薄いだろう(自分ではあまりプレイしないタイプのゲームなので分からない)。 そろそろダークソウルに話を戻そう。そう、私はダークソウルをクリアした。多くの苦難にもかかわらず。ダークソウルはビデオゲームのインタラクティブな悲劇性において、その究極をいくもののように思えた。理不尽とも思えるような失敗の連続、そしてそれに伴う慈悲のないソウルのロストは賽の河原で石を積むような苦行のようだった。無慈悲に時間も食うし。しかし、失敗を耐え忍び、反省し、挑戦し続け、一縷の成功を掴み取っていくプロセスには言いようのない満足感があった。 人間性というステータスがあって、それはもちろん死んだらなくなるんだけど、私には失敗するごとに人間性が高まるような感覚があった。このゲームにおいては失敗こそが人間性なのではないかと思っていた。人間性を補充できるアイテムもあって、それが他の冒険者の死体とかネズミ(に喰われた人)とかから入手可能なんだけど、それはすなわちかつての誰かの冒険の失敗の残骸なんですよね。なんかそれが象徴的だなと思って。あらがい、挑戦し、それでもなお能わないことにこそ全能な神性との対比としての人間性が認められのではないかと思って。それで長々と書いた。 I finally played Dark Souls, which took me about two months to complete. It wasn't easy. It was long. But I felt a sense of satisfaction and accomplishment, like I had finished reading a classic long novel, and it felt good. It was a strange adventure. I died over and over again, tried again and tried again, and died again. It was so balanced that I could finally win on the 18th try, and I thought it would break my heart. But I didn't give up. Indeed, it's hard. The sense of despair that the result you have spent hours to reach has gone down the drain is immeasurable. But there was an aesthetic satisfaction in the play loop centred on that failure that I can't describe. When you think about it (except casual games like those put out by Nintendo - so-called non-games, as Satoru Iwata calls them), video games are a medium where you experience more failure than success. Even if we don't take Dark Souls as an example, or Super Mario on the NES, once you die, all your previous efforts come to nothing, and it's even a tragedy, almost like the agony of the Sisyphus. Do we want to experience failure through video games? Do we fundamentally crave failure? No, we want to avoid failure if possible. Failure is painful. Whatever we do, we want it to work. But video games are about setting clear goals. Thus, clear failures follow, too. It is mentally hard to fail again and again. But we like to do such things - video games. It is not only games. We often seek out tragic media with psychological pain. We would instead find films, novels, and comic books tedious when the characters don't show any pain.  We often seek painful tragedy in our media experiences despite our desire to avoid pain. Why is this? There are several possible explanations. According to a book by Jasper Juul, it explains like so: 1) we actually do not take suffering seriously as we do in real; 2) we can always avoid suffering (e.g. by closing the book); 3) suffering is eventually redeemed in the story (e.g. by the success of the character's goals); Yuul adds: We experience tragic media through two systems: one through aesthetic desire and the other as a physical response. That's how we have two ambivalent feelings; ‘I want to watch this film’ and ‘I can't bear watching such a painful film’. So why do we often seek out films with tragedy (and games that frequently experience failure) in the first place? I offer an existentialist explanation for this. We crave the sense of failure and pain because we are enlivened in our rebellion against the absurd. As Camus said in The Myth of Sisyphus, life may be a travesty in which we are confronted with absurdity (and ultimately death) no matter what we do. Still, it is the rebellion against this inevitable failure that gives life meaning and makes us aware of our humanity in the challenge against the failure that is death. In reality, however, we are oblivious to what we ultimately fail at. Things in everyday life don't give us a clear sense of failure. Only the fact that you are steadily dying day by day is something that we remember from time to time. If death was the ultimate failure, the feedback on our way of life is so ambiguous. We sometimes resent that we have wasted our limited time, but we still survive anyway for the time being, so we just let the feeling fade away. Unless there is a vivid Memento Mori moment, as in Akira Kurosawa's Ikiru, people are lazy. The absence of the failure of death often results in a lethargy towards life itself. What is missing there is ultimately a sense of death but generally a sense of failure. In continuing to try something that may or may not fail, something that one does not know whether one can do well, human beings gain existential entity in their defiance. But often, human beings rest in the peace of not challenging themselves. In other words, we are often hungry for a sense of existence, which is failures. And that hunger is never actually satisfied until you die. That is why tragedy deserves to be appreciated (in the sense that it evokes the tragic nature of life and invigorates life), and we often find films and mangas boring if the characters don't show any pain. Instead, we devour dramas like The Godfather, resonate with Shinji Ikari in Eva and find beauty in the decadence of Kyoko Okazaki's manga. The aesthetic aspect of most media is, to a greater or lesser extent, tragic. In that sense, video games also have aspects of tragic media. You could say that the media experience of video games is an interactive tragedy. When you play video games, you often experience more failures than successes. It is painful to play a video game for hours, sometimes dozens of hours, and endure the pain of repeated failure, which can be almost futile. With each failure, you have to start again. There is an absurdity to it, like the agony of the Sisyphus. Such failure sequences may not be as dramatic as in the film, but they are more frequent and personal, which damages the player's self-esteem. That tragic character can be seen in games like Dark Souls and Mystery Dungeon. And it doesn't just happen on the other side of the screen, like in a film or something, but as an interactive media, it puts the responsibility on the players themselves. Video games are ultimately interactive tragic media, even a bizarre experience in which you take responsibility for the tragic consequences that befall you as a result of your play. Why, then, do people continue to play games despite such agony? Why do they continue to rebel against such absurdity? One reason may be that they recognise the aesthetic value in the process of rebellion itself. Even if there is no heroism in the succession of failures, the player gains existence as a rebel insofar as he accepts responsibility for each failure. However, players do not fail forever. In fact, many video games are not designed as completely unreasonable. They are designed so that players can eventually experience success as long as they accept responsibility for their failures, reflect, learn and try again. Players experience catharsis in the moments when they find a glimmer of success after millions of failures. In this way, tragedy is eventually redeemed. This is the moment when what Yuul calls ‘emotional gambling’ rewards you. The player struggles within the constraints (rules) of the absurdity of the game and eventually achieves victory. We find a kind of human fulfilment in this series of experiences. In other words, we play to learn. Because failing repeatedly is also learning repeatedly. Whether we know it or not, we enjoy the process of trying, failing and learning in video games. In this sense, success in a game is only feedback to the player's learning. It is also worth noting that success in the player's learning process does not necessarily lead to success in the in-game reality (or Half-Real, according to Yuul). For example, in the horror game Siren, you only experience further absurdity after beating a bunch of extremely difficult stages, as the copy of the game warns: ‘No matter how you try, it's only despair (どうあがいても、絶望)’. However, many people, including myself, love this tragic game. As you suspected, there are two conditions for a videogame to be a tragic interactive media. First, it must present failure and success. The videogame must explicitly or implicitly mark those boundaries through its rules. Failures must be given feedback to the player as failures. Otherwise, the sense of resistance to failure would diminish. Second, players must take responsibility for the failures and successes presented to them. Failure or success must be a consequence of the player's actions. Otherwise, there would be less sense of the absurdity of failure and the defiance of it in the game. Of course, just as not all films and novels are tragedies, some games do not or appear not to, fulfil the above conditions. For example, Harvest Moon, Animal Crossing, or Stardew Valley may have no evident failures. In those games, players might fail at their own goals if the player acts on some goal and invests time in the game. However, it would be less tragic, as you can adjust your goals (I don't know, it's the type of game I don't play much myself). Anyway, let's get back to Dark Souls. Yes, I beat Dark Souls despite many hardships. Dark Souls seemed to be the ultimate in interactive tragedy in video games. I lost all the Souls I got every time I failed, which was a painful experience. It was like piling up stones on the Sai no Kawara. It also mercilessly ate up my time. But there was an inexpressible satisfaction in the process of enduring the failures, reflecting on them, continuing to try, and grasping a glimmer of success. In the game, there is a status called Humanity, which (unsurprisingly) disappears when you die, but there was a sense that my Humanity grew with each failure. I thought that failure is humanity during the play. Some items can replenish humanity, which is available from the corpses of other adventurers or rats (that have eaten people), which suggests that Humanity is the remnant of someone's failure in their adventure. I found it symbolic. It is the fact that we struggle, try and still fail where we can recognise our humanity as a contrast to the omnipotent divinity. I thought about that, so I wrote at length.
徒然なるままに書いていく。メルボルンに引っ越してきてもう半年になる。良い街です。何が良いって雰囲気が良い。東京ほどクソほど人が多くなく、息苦しくなく、気候はカラッとしていて、夏でもジメジメせず、そしてメシは美味い。スシを除けば。街はこじんまりしてるけど常に人の活気があって良い。常に誰かがどっかで路上ライブしてるか、爆音で音流してる店がどこかにあり、いい意味でうるさい。道歩けば色んな人がいる。中国人の学生も裸のおっさんも薬中の婆さんもインド人の群れもいる。物価は高いっちゃ高いけど何だかんだで東京で暮らしてた時と出費は変わらない。毎月の国民健康保険料払わなくなったからだと思う。あと飲酒量が減った。酒がなんか手軽にスーパーとかコンビニとかでついでに買えないので自然と。メシ代はまあ自炊してるとそこまで変わらない。外食は高い。ランチで2000円くらいならまあ良いんじゃねってくらいの感覚になってきてる。コーヒーはそんな高くないしうまい。基準がダンチ。やっぱ文化の底って大事なんやなと思う。どんだけレベル低くてもある程度の品質保たれるっていう意味合いでの底の厚さが色んなところにある。日本で言うとスーパーで買うような寿司でもまあ美味いみたいな。寿司として成立はしてるよねっていう。逆にこっちで街で評判のスシを食ったんだけど良くてまあ日本のスーパーで買うレベルだった。それって多分やっぱ受け手の許容できるレベルが大いに影響するよなと思う。知らんけど。その辺の店でもそんな対して努力してなさそうでもそれなりにサマになってるみたいなのはそういうことだと思う。イギリス人が100年以上前に建てた建物をいまだに使えてるってのもあるだろうけど。逆に東京が都市として良かったなと思うところはあの効率性というか匿名性とでもいうべき人とモノの流通網だったのかもしれんと思う。東京ってすごくデカくて、物量があるからこそすごく均質化されていて、その薄くならされた土台の上に色んなサブカルが乗っかってる感じ。メルボルンはまあ人や文化が混ざってることは確かなんだけど、狭くて分厚い土台の上にみんな一応乗っかってる感じはする。私はこの街で感じる異邦人としての異質さも結構それはそれで気に入ってる。この街の何がそうさせるのかは分からないが、私には私の輪郭があり、通りを歩き、飯を食い、行動しているという感覚がある。それは自分がここでは外国人だから、という訳ではなくて。東京にはあった匿名性というものがここには無い。退屈な人間が人類皆NPCとか言うけれど、実はそうではなく、これは壮大なマルチプレイヤーゲームなのではと言う気にさせてくれる。街の活気が。それはおそらく住民の多くの割合が移民というのもあるだろうし、引っ越してくること自体が選択であり、人々はそれなりに生きる覚悟があるというか。知らんけど。そもそも何でこっちに来たかっつーと家庭の事情で。相方がここ出身なんだけど、しばらくは地元で暮らしたいというのでついて来た。私としては一緒に居られるならどこでも構わないから行くわって感じで。3年前くらいからぼんやりと、この辺でいったん日本を出るのもアリかなとは思っていてタイミングも良かったので。今は一緒にアパートに住んでいる。彼女のことはとても愛している。親元離れてからはずっと一人暮らしだったけど二人暮らしも悪くない、というかとても良いです。基本的には異質な者同士だが、2つで1つの片割れどうしとして噛み合うのだと思う。彼女は私を、私の安寧な箱の外に駆り出してくれる。それは鬱陶しくもあり、コントロールできないものであり、愛おしくもあり、エキサイティングであり、私を地上に引きずり下ろすものであり、それゆえにかけがえの無いものだと思っている。いま夏で暑くて眠れなくてダラダラ書いてたんだけどそろそろ寝る。
The only thing I require from a video game is that personal stories emerge from the gameplay. A video game is a state machine that emits situations that players find relevant. Situations form a personal story through the gameplay. Stories are not in the dialogues, cutscenes, or whatever explicit forms. The stories emerge in the game's situations into which I'm thrown or in the situations I manage to earn by my actions in the game. In short, a good video game is an interface through which you can experience a miniature of your life. The situations in good video games feel so random and uncontrollable, yet there is some space you can act on. Life might be hard and unbeatable, but yet you at least want to realise that there are some things you can have control of. Life is strange, and you are lost in it. Still, you act and see what happens because your life has such a personal feel to it, and you can't just let it go randomly. Good video games share the same motivation and satisfaction as your own life. It's the interface that satisfies the exact desire we have for your life. This interface, called videogame, has three components: Randomness, decision, and progress. In combination, they form situations where you find your personal stories. First, it needs to "feel" random, so you feel the need for your actions to adjust the situation. What's the point in trying hard when everything's already determined? You don't know what's happening next, so you must adapt your act based on the random situation. Second, you need to be able to make decisions to cope with randomness. Even though you can't have control of everything, there must be a space where you can. And it should give you feedback on your actions. Third, there must be a sense of progress that rewards or judges your decisions. Be it good or bad, there is always something new, which can be random, when you act. This loop of input and output is what makes you keep playing. A good game has this structure. It has a proper interface, which contains randomness, decision, and progress, that makes you grow the motivation to play. A story is a function that takes motivations as its arguments. When you follow a story in a novel, it's ultimately the motivations of the characters that you are following. In the form of a book, it gives you the interface through which you learn about the random situations characters are thrown into, which makes characters act in a certain way. As you go through the pages, the conditions change, and so do the character's motivations. Dostoevsky is probably the one who introduced this structure of this kind of gameplay. It's only that the controller has a limited number of commands. So, what if you are following your own motivation instead of the character's motivations? It would form a very personal story. It'd be a more personal story than any other. When you are obsessed with a video game, you are obsessed with the personal story you find in the gameplay, for the same reason you care about your own life. It can sound stupid, like, "I wanna get that Pokemon and attach this move to her". It may not feel fancy, but it is indeed relevant to you. Your life can sound stupid to others, but your life's shit is so important to you anyway. It's okay even if others don't understand your life. No one shares the same situations where your own motivations arise. A good game drives your personal experience. It shouldn't try to convey a static story. It should be a well-designed interface through which you grow your motivations. Whatever the game is, a good game has its unique design that sets up the motivations in the structure of randomness, decision, and progress. A bad video game doesn't make you motivated because it lacks randomness, decisions, or a sense of progress. Anyway. I've written all this because I've been obsessed with one game for the last couple of weeks. It's called Mystery Dungeon: Shiren the Wanderer. It has all the aspects of my definition of a good videogame. The first title of this franchise from 1995 is my all-time favourite. I found out Spike Chunsoft released the 6th title in two decades, so I gave it a play. I found it like a sincerely polished modern version of the classic from the 90s. The core game experience is all about dealing with random situations in the dungeons, which lets you grow various motivations in each play. I was into it just like when I first played the original. I thought of why. I realised this game succeeds in being the exact interface I want video games to be. I don't know if this game is successful outside Japan, which I doubt from an aesthetic point of view, so I wanted to say the fact that it is a good game. You should try it if you want the personal experience I described. シレン6をやった。良かった。ランダム性、意思決定、そして進行の回路が完璧に調整されているゲームバランス。状況の豊かさが各回のプレイで立ち上がってくる感じが素晴らしい。そのテンポが凄まじく速い。10時間くらいぶっ続けでやって99Fダンジョンをクリアした。アクシデントもあった。だがそれが個人的な物語になるんだと思った。正解はないし、自分で答えを探し、状況を打開する快感。積もっていく階層とともに募る事故死の不安。そうしたランダムな状況で立ち上がるドラマがあるゲームというのは、やはり面白い。ビデオゲームとは究極的には状態機械であり、プレイヤーのインプットに対するアウトプットとしての状況を通じて物語がプレイヤーの中で生まれることを助ける装置、インターフェイスなのだと思った。 前にも言ったような気がするけど物語とは動機の関数であり、キャラクターの動機を追うことによって、不安定な状況の海から掬い上げられる一筋の流れとしてとらえることができる。そこには選択があり、後戻りはできない。否応なく前へ前へと進んでいくことの非可逆性によってその瞬間に対するノスタルジーが生じる。その時に我々はまた自分自身の動機をも追っているのであり、そうした二重の物語が織りなす経験こそがビデオゲームに限らず優れたインターフェイスがなせる技だと思っていて、私は、この時代において数は少ないけれども、そうしたものを評価したい。
ガンツを読んだ。よかった。漫画の原作があるのは知ってたんだがどうも映画化されたりしたチープな印象が拭いきれなくて(確か中学生くらいの時に友達とワイワイ劇場まで見に行って吉高由里子かわいーくらいの感想しか出てこなかった)、なかなか手が伸びてなかったんですが、こいつは良い。割と一気に37巻まで走破して2周目まで読んだ。執拗なほど一貫したノリがある。じゃんじゃん人が死ぬし、基本的にデスゲームっつーか殺し合いだし、それでかつ最後までいやほんまにバンバン殺しちゃって良いん?という葛藤というかテーゼを投げ出さない態度は一貫していて良い。中盤に出てくる桜井akaチェリーボーイの回で端的に言語化されるんだけど、トンコツとのメールの問答の中で、いや、人は絶対殺しちゃダメだよ!と言う中で、いや法律で決まってるからダメなのかって言うと納得がいかない。いや、そうじゃなく、一度殺してしまえば戻れなくなってしまう、別の世界に行ってしまう、と言う曖昧な返答にトンコツは終わるわけなんだけど、これは実はけっこう的を得ている。つまり、人を殺すことは、修羅の世界に行ってしまうことなんですよ。つまり、自分が他者に暴力を振るうことは、それは他者もまた自分に暴力振るって良いよってOKすることで。人を殺すことは、自らもまた殺されることを決定的な形で許容することでもあるわけで。殺しという決定的な暴力は、自らの手で決定的な暴力の現実性を証明することだ。それはおそらく決定的に世界を変えてしまうよね、という意味でのトンコツのセリフだと思った。それは修羅の世界に足突っ込むぞ、と。別に相手に申し訳ないとかそういうことじゃなくそれ以上にその殺した後で自らもまた殺され得るということを認識しながら生きるのは結構しんどくない?という意味で。それはおそらく人間を捨てて怪物にならないと耐えられない。ガンツという不条理そのものが与えてくるミッションの中で、キャラクターたちが怪物になってしまうか、それとも人間になるか、てのがテンポよく描かれていて良い。 そういう意味で和泉クンは怪物になってしまった人。人間どうしがお互いに人間として関わり合えるのは、理由がない限り、お互いに危害を与えないという意味において、彼は人間をやめている。そして新宿での虐殺を行なって修羅の世界に入ってしまった。最後に彼は吸血鬼集団の襲撃に遭って死ぬけど、他のガンツメンバーに救出されないのは彼がすでに修羅の世界の住人そのものになってしまったから。一応、彼にも葛藤はあって、新宿で大虐殺を行う前に3ページくらい銃を撃ち渋るんだけど、その先はもう行ってしまったもんはしゃーないって感じでバンバン行ってて、あーここが分かれ目かと。もうここで彼は殺し殺されることを許容してしまっているんですね。 じゃあ人間じゃなかったら殺しても良いんかいなというツッコミが第1巻からずっと徹底してあって、加藤なんかはそこですごくすごく葛藤するんだよな。ネギ星人であろうが殺すのを渋っていたのは殺すのが怖いからとかじゃなく、彼は殺されることを決定的に意識してしまうことに対して恐怖している。それは多分ゴキブリを殺すとかとは違って、なんつーか相手にも人間と同じような理性あるいは暴力性を認めた瞬間に、修羅の世界への扉があらわれる。でも結局やっぱり殺さないと生き延びられない訳で、弟のところに戻るっていうモチベだけで大阪編では活躍しまくるっていう。自分の割と利己的な理由で他人に対して暴力を振るっても良いのかっていうとうーんと思うかもしれんがじゃあお前は他の命を屠らずに生きていけんの?っていうとそうじゃない訳ですよね。殺人は自分に対する暴力をも肯定しうるけれど、しかしまた同じ理屈で自らが生きることは、どんな理由があろうと徹底的に生きることは、他の生が生きることをまた肯定する。自分の命のありがたみがわかって初めて他者の持っているかもしれないそういうありがたみもまた分かるという訳で。だからね、他者の命を軽んじる人ってのはあんまり強く生きていない人なんですよ。有り体に言って。それは著者の他の作品(も読んだ)でも顕著に描かれているなあと思ってて。ギガントに出てくる悪意とか、自分の人生に退屈してるというか、大切にしてない人間の退屈しのぎって感じやもんね。犬屋敷さんも彼が本当に聖人かというと最初そうも思えないのは、やはり彼が彼自身の利己的な生を肯定できていないからで、でもやっぱり娘さんが死にそうってなって他の大多数の人間を見捨てて助けに行くってことが、その大多数の人間のそれぞれの利己的な幸福を尊重するということでも(極論ではあるが)思っていて。 で、玄野くん、ケイちゃん、彼が最終的に人間になる物語なんですよね、ガンツって。やっつけに行ってください、て言われて星人どもを殺しに行くって言う、これは修羅の世界に行ってしまう一歩手前な状況なんですけど、彼はそっちに行きかけて、でもやっぱりタエちゃんと言う存在が大きくなるにつれて人間味が爆上がりしていくんですよね。最初の玄野はほんっとに薄っぺらな野郎なんだけどその空虚さを埋めるためにガンツのミッションにやりがいを見出したりもするんだけど最後の方の「死ぬかよおおお」の重みはやっぱりダンチだよ...。すげえ成長っぷりだよな。チビ星人い「(小島多恵が)そんなに大切か」って聞かれて、「や、別に...」で回を終了していた男とは思えないよ。レイカに複製されてまあ良いんじゃねってノリで結局レイカとやるんかいってのもまた正直で良い。彼が最後に巨人の将軍とタイマンはるけど、それはやっぱ星人に対する彼なりのリスペクトあってのものなんじゃないかと思いたい。
否応にも我々は何かを忘れてしまうもので、何かを忘れたような気がするんだけどそれがなんだったのかすら思い出せない時、それは果たしてそこにあったのかどうかさえを疑ってしまうような勢いで、便所でクソを垂れ流す。悲しみもまたラグジュアリーであるし、誰も昔のことなんか覚えられない。あるのはただ、consistentでありたいという叶わない欲望だけで、過去に背中を剥ぎ取られたくないから逃げている。自分の背中を見たことがあるだろうか。私は存在しない。私は運動そのものである。私が動くのではない。動いたあとで私が生まれる。そんな感じで仕事をしたい。私は手を動かすことにしか興味がないと思った。どこにも深淵なものなんかない。愛し、愛されることに深みはいらない。というか金が欲しい。その過程が大事。結果は二の次。寝る。夢を見る。
自戒のために書く。まず何がなんでも生きる。生きることに対して努力すること。動物でもやっていること。それを徹底的にやること。肯定すること。生きることを肯定しなくてはならない。生きることは決定することではなく、受け入れることだ。自分のいかなる決定をも受け入れること。そして他社の決定を受け入れること。世界と存在とを一つの決定として受け入れること。それを否定することは、見ないことであり、何も見ずに山中で生き残ることは難しい。それは緩やかな自殺でしかない。まず見ること。そこにあるものをそこにあると認めること。他者もまた営利団体であること。この世には非営利団体などないこと。自らの置かれた被投性を一つの決定として認めること。まずそれら全てを認めることよって、笑うことが可能になる。バタイユが言ったように、生きることは絶えずサイを投げることで、決定されることに対する肯定が、笑うことに繋がる。つまり、悪は存在しない。戦いは常に生きるものによって行われる。死者に参加権はない。何を恐れているのか。生を恐れない者だけが愛に値する。私は死者を愛することはできない。ゆえに生きるものを生きているものとしてみなす。当たり前のことだよな。なぜ、私たちは往々にしてそれができなくなるのだろう?あなたを受け入れないものは幸いである。なぜならその人はあなたを受けれないことによって生きるから。あなたに与えないものは幸いである。なぜならその人は利益を得て生きるから。人は何かを得るという条件においてのみ、与える。与えるだけで得ることのない人は生を否定している。無料で何もかもが手に入ったとして、それではとても生きているとは感じられないだろう。だから得ること。利益を得ること。食い物でもなんでも良い。動物でもやれること。それをきちんとやることだ。その時になってようやく初めて人は初めて愛することができるし、笑うことができる。鹿になれば良い。